日本の魔の海域「ドラゴン・トライアングル」

伝説

世界的に有名なバミューダ・トライアングルから遠く離れた地球の裏側の日本に、船や飛行機が消息を絶つ海域がある。

ドラゴン・トライアングル

ドラゴン・トライアングル
チャールズ・バーリッツ『魔海のミステリー』(芸文社)より

野島崎の南沖を基点とし、小笠原諸島の新島の西南西、グアムを結んだ三角形の海域である。日本では古来より、この魔の海域を「ドラゴン・トライアングル」と呼んで恐れてきた。

海外では「Devil’s Sea」(魔の海)と呼ばれる。

ドラゴン・トライアングルで消息を絶った船や飛行機は数多くある。たとえば、1952年9月24日に、明神礁沖で姿を消した第五海王丸の事件。31人の乗組員が失踪したこの日は好天で、周辺の海域はとても穏やかだった。残された交信記録からは、消息を絶つ直前まですべてが順調だったことがうかがえる。

ところが彼らは突然、姿を消してしまったのである。現場に残されていたのは、軽石の破片が絡み合う木片だけで、あとは何も残されていなかった。乗組員や船は、一体どこへ消えてしまったのだろうか。

1970年2月10日には、日本の貨物船かりふぉるにあ丸が消息を絶っている。この事件をさらに奇妙にしているのは、同船を捜索中だったフジテレビのチャーター機JAL-341が、同じドラゴン・トライアングル内で姿を消してしまったことである。

これらの船と飛行機の行方は現在もわかっていない。

1971年4月27日には、海上自衛隊の潜水艦探査機P2Vが、11名の乗員もろとも姿を消した。同機はその直前、基地に着陸の許可を求める連絡をしていたが、その姿を現すことなく忽然と消えてしまった。

1975年12月29日には、リベリア船のベルグ・イストラ号も消息を絶っている。同船は失踪直前、「天気は上々、海も静かだ」と連絡していた。

このようにドラゴン・トライアングルでは謎の消失事件が相次いで起きている。その数は把握されているだけでも43件に及び、いずれも原因はまったくわかっていない。

こうした現象はなぜ起きるのだろうか。一説では、同じく「魔の海域」として有名なバミューダ・トライアングルと同様に、異次元への入り口があるのではないかともいわれている。

また同海域とドラゴン・トライアングルには奇妙な一致がみられることも指摘されている。地球上の正反対の位置にあり、両方とも北緯35度線上に位置し、バミューダ・トライアングルの東端である西経50度線を北上していくとドラゴン・トライアングルと交差するというのだ。

これらは偶然とは考えにくい。二つの「魔の海域」は、お互いに強い関係性を持っていると考えられるのである。(以下、謎解きに続く)

謎解き

ドラゴン・トライアングルは、主に海外で流通している話である。そのため日本で起きているとされながら、日本人にとってはほとんど馴染みがない。本当に【伝説】で主張されるようなことが起きているのだろうか?

以下で、順を追って検証してみたい。

ドラゴン・トライアングルの場所

まずはその場所。最初の基点とされる野島崎は、千葉県房総半島の南端に位置する。ここの南の沖が基点になる。次にそこから南下すると、小笠原諸島の新島の西南西にあたるという。

ここでいう「新島」とは、伊豆諸島にある新島(にいじま)のことではなく(野島崎に近すぎる)、もっと南の小笠原諸島にある西之島の新島(しんとう)のことを指しているようだ。そしてその次が三番目のグアム島だという。

西之島は2013年に噴火し、もうひとつ新島ができたことでニュースになった。

これらを実際の地図に当てはめて示したのが下の図である。

実際のドラゴン・トライアングル

実際のドラゴン・トライアングル(Google Mapより)

先に示したドラゴン・トライアングルの地図と比べるとだいぶ形が違っている。実際はかなり細長い。おそらく先の地図は見栄えを重視して適当に書いたのだと思われる。

【2019年4月23日追記】バーリッツがドラゴン・トライアングルについて書いた『魔海のミステリー』の原著『The Dragon’s Triangle』を確認したところ、翻訳本とは異なる説明がされていることがわかった。原著でのバーリッツの説明は、基点となる場所が実在しない「東京の北の西日本」となっているほか、示されている方角や位置関係に間違いが多く、三角の海域どころか線をつなげることすら不可能な代物だった。翻訳本で異なる説明がされたのは、原著の説明が破綻していたため、仕方なくだったのかもしれない。

ちなみにこの海域がバミューダ・トライアングルと奇妙な一致を見せるというのも、検証してみると事実ではなかった。2つは正反対の位置になく(実際は南米のチリ沖)、北緯35度線上にも位置していない。バミューダ・トライアングルの東端も西経50度線上にはなく、その距離は 1400キロ近く離れている。

このように位置関係は、かなりデタラメのようだ。

消失事件の真相

それでは、実際にドラゴン・トライアングル内で起こったとされる消失事件についてはどうだろうか。私が調べてみたところ何らかの記録が見つけられたのは、43件中20件だった。残りの23件については本当に起きたのかどうか確認が取れなかった。

また確認できた20件のうち、真相がある程度でもわかっているのは13件である。たとえば1952年に起きた第五海洋丸(「海王丸」は誤り)は、海上保安庁の明神礁観測船で、観測中、火山の噴火に巻き込まれて瞬時に沈没したと考えられている。

漂流物も「軽石の破片が絡み合う木片だけ」などということはなく、実際には測量用浮標、木箱、波よけ板の破片、救命浮き輪、醤油樽の破片、冷蔵庫に使われていた壁の破片、天井の羽目板、手すりの破片などが発見されている。また明神礁の火山灰や火山弾が芯にめり込んだ丸太も見つかっている。

さらに第五海洋丸は9月24日午前10時頃には明神礁に到着しており、連絡を絶った正午頃には明神礁で噴火が確認されている。これらを考えれば、噴火に巻き込まれて沈没したことは明らかである。

次に1970年2月10日に起きたかりふぉるにあ丸の事件は、当時、海が大シケだった。同船は荒れた海の大波を受けて沈没したと考えられている。

同時に消失したとされるフジテレビのチャーター機JAL-341(正しくはJA3414)は、犬吠埼の南東54キロの海上で、「燃料があと10分ぐらい」、その後「千葉県大東崎東方15キロの海上に着水した」と緊急連絡していた。

捜索隊が現場海域に向かうと乗員や機体の姿はすでになかったものの、海面には油が浮いていた。また当時、海はかなり荒れていたため、着水後、海に飲み込まれてしまったと考えられている。

1971年7月16日に起きた海上自衛隊のP2V機のケースでは、同機は当初、千葉県の下総基地で着陸態勢を取っていた。しかし高度を下げすぎたため、近くの家の松の木に接触。右主翼の燃料タンクが吹っ飛ぶ事故を起こしていた。

そこで同機は再び高度を上げたが、「操縦やや困難につき、洋上で左翼の燃料タンクを投下する」と連絡して銚子方向に向かった。しかしその後、千葉県鴨川市の航空自衛隊レーダーサイトに、「緊急状態にある」と連絡したのを最後に行方がわからなくなっていた。

当時の銚子気象台によると、銚子地方は未明から霧が深く、濃霧注意報が発令されており、海上ではほとんど視界ゼロの状況だったという。そのためP2V機は海上に墜落したと考えられている。(後日、同機のエンジンと乗員の遺体が海上で発見された)

1976年1月19日に起きたベルグ・イストラ号バージ・イストラ号ともいう)は、救助された乗組員の証言から、機関室のエンジントラブルによる爆発があったことが判明している。同船はこの爆発によって沈没してしまった。

このようにドラゴン・トライアングルで起きたとされる事件は、実際には謎の消失事件などではないケースも多い。またそもそもの話として、「ドラゴン・トライアングルで起きた」という前提からして、実は事実と異なっている。

以下の図は失踪場所が判明している事件の実際の失踪場所を示したものである。

実際の失踪場所

各事件の失踪場所(Google Mapより)

ドラゴン・トライアングルにかろうじて入っていそうなのは第五海洋丸のケースだけで、あとはみんな外れている。これらを全部、同じ海域で起きた奇妙な事件とするのは、いくらなんでも無茶だ。ドラゴン・トライアングルという設定は破綻していると考えるのが自然だろう。

ひどいものになると、同海域から約5000キロも離れたアリューシャン列島の事件もあった。あまりにも遠すぎるので地図には載せられていない。

本当にあった魔の海域

以上のように、ドラゴン・トライアングルの話は怪しいものばかりだ。それでは、「魔の海域」というのも存在しなかったと考えていいのだろうか。いや実は、そうでもないのである。日本の海には、かつて「魔の海域」と呼ばれる危険海域が実在していたのだ。

その場所は、野島崎の東方の沖合に広がる海域で、ドラゴン・トライアングルとは全然重ならないものの、実在していたことは確かだということがわかった。

北緯30度~35度、東経143度~160度に及ぶ、約50万平方キロの海域。

この海域では1969年~1981年までに、計24件の海難事故が発生している。中には船体が真っ二つにへし折れたケースもあったが、はっきりとした原因はわかっていなかった。

しかし魔の海域が実在するのであれば、それを放っておくわけにはいかない。海難事故の続発を受けて、1982年、当時の運輸省が専門家などによる「異常海難防止システム総合研究開発委員会」を設置して調査を進めることになった。

この調査では、波浪観測用の大型浮き標を定置したほか、巡視船による波浪衝撃の計測なども実施。調査期間は5年にも及び、その結果、次のことがわかったという。

同海域での海難事故は冬に集中しており、低気圧が発生しているケースばかりだった。
本州南岸で発生した低気圧の影響で、同海域に強風が吹くと、黒潮などの海流の影響も重なり、大波が発生する。
大波は約14メートル、時には20メートルを越す場合もある。
この大波に船が乗って上から落ちると、激しく船底が叩きつけられる「スラミング」という現象を起こす。スラミングの際に船底に働く力は1万2000トンを越える。
スラミングが起きると船体はその衝撃に耐えられず、真っ二つにへし折られたり、大きく破損したりなどして沈没する。

魔の海域の正体は、異常な大波によって発生するスラミングという現象にあったのだ。この調査結果を受けて、運輸省は1986年8月25日、異常な大波が発生した時に役立つ小型の「安全運行支援システム装置」を開発。

この装置を船に搭載させることにより、事前に大波を回避し、スラミングの発生確率を抑えることに成功している。また調査結果を受けて船体の強化なども行われるようになった結果、同海域での海難事故は減少した。

こうして実在の「魔の海域」は消えていった。それは現実に起きている悲劇をなくしたいと願う、関係者の地道な原因究明と対策による結果だった。

かつての「魔の海域」は現在、北太平洋の重要な航路としての役目を果たしている。

【参考資料】

  • チャールズ・バーリッツ『魔海のミステリー』(芸文社、1991年)
  • 「下田沖で漁船遭難」『読売新聞』(1952年6月9日、14版、第3面)
  • 「第五海洋丸の沈没確認」『読売新聞』(1952年9月28日、14版、第3面)
  • 「涙そそる拾得物 第五海洋丸 無残な破片類浦賀へ」『読売新聞』(1952年9月29日、14版、第3面)
  • 「爆発、瞬時に沈没 第五海洋丸調査委が結論」『読売新聞』(1952年10月15日夕刊、4版、第3面)
  • 「漁船遭難22名絶望 硫黄島沖」『読売新聞』(1953年12月29日、14版、第7面)
  • 「二十五名遭難 マグロ漁船沈没?」『読売新聞』(1954年10月20日夕刊、4版、第3面)
  • 「給油機も行方不明」『読売新聞』(1957年3月13日、4版、第5面)
  • 「遭難米機の乗員漂着」『読売新聞』(1957年3月18日、4版、第3面)
  • 「遭難米機の電波ブイか」『読売新聞』(1957年3月26日、4版、第5面)
  • 「タンカーまっ二つ 船長ら七人死ぬ」『読売新聞』(1970年1月7日夕刊、4版、第7面)
  • 「魔の千葉沖 かりふぉるにあ丸沈没」『読売新聞』(1970年2月10日夕刊、4版、第1面)
  • 「3人乗り取材機(フジTV)遭難」『読売新聞』(1970年2月10日夕刊、4版、第1面)
  • 「気象か船体の欠陥か 深いナゾに大きな不安」『読売新聞』(1970年2月10日夕刊 、4版、第10面)
  • 「自衛隊機11人乗せ遭難」『読売新聞』(1971年7月16日夕刊、4版、第11面)
  • 「墜落P2V機エンジン発見」『読売新聞』(1971年7月22日、14版、第14面)
  • 「35人乗り鉱石運搬船が不明」『朝日新聞』(1971年11月18日夕刊、3版、第11面)
  • 「漂流の二人救助 不明二十日リベリア船」『朝日新聞』(1976年1月19日夕刊、3版、第7面)
  • 「43人乗り英国船不明」『朝日新聞』(1980年9月16日、13版、第22面)
  • 「全員絶望か 遭難のギリシャ船」『朝日新聞』(1980年1月12日、13版、第23面)
  • 「また二隻が消えた “魔の海”野島崎沖」『読売新聞』(1981年1月27日、13版、第5面)
  • 「異常遭難なぜ相次ぐ 魔の野島沖にメス」『読売新聞』(1981年7月3日、14版、第22面)
  • 「原因は大波の連続」『読売新聞』(1981年11月21日、14版、第22面)
  • 「海難続発の本州東方 『魔の海域』解明へ一歩」『読売新聞』(1984年3月28日、14版、第3面)
  • 「安全システム開発 運輸省」『朝日新聞』(1986年8月26日、14版、第23面)
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