千里眼の開山「御船千鶴子」

伝説

明治19年(1886年)、日本で初めて科学的に調査されることになる超能力者が熊本に生まれた。彼女の名前は御船千鶴子「千里眼」とも呼ばれる透視能力を持った超能力者である。

御船千鶴子

御船千鶴子(みふねちづこ)
出典:福来友吉『透視と念写』(福来出版)

千鶴子は17歳頃、義兄の清原猛雄に催眠術をかけられ、誘導されたことをきっかけに超能力者として目覚めた。22歳の頃には本格的に透視を開始。熊本では姉夫婦(清原夫妻)が開業していた治療院で透視能力を使った治療を行うようになっていった。

彼女が本格的に調査されるようになるのは、それから約2年後の明治43年。東京帝国大学(現・東京大学)の助教授・福来友吉博士とは、この頃に初めて出会った。

千鶴子と福来博士は、数々の実験を行い、透視を成功させていく。しかし多くの学者たちは否定的な立場を崩さなかった。そんな中、明治43年9月に東京で行われた実験で事件は起こる。

この実験は学者立会いのもとで行われたが、千鶴子はあろうことか実験物のすり替えを疑われてしまったのである。もちろん彼女はすり替えなど行っていない。しかし学者やマスコミは千鶴子を批難し、彼女に対する否定的な論調を強めていった。

そして明治44年1月18日。自らの能力が認められないことに絶望した千鶴子は、染料用の重クロム酸を服毒。24歳の若さで自殺してしまったのである。(以下、謎解きに続く)

謎解き

千鶴子は日本の超能力者の中では比較的知名度があり、有名な『リング』に登場する貞子の母、山村志津子のモデルにもなっている。

原作者の鈴木光司氏によると、小説のアイデアを考えている際に図書館で読んだ『超心理学者 福来友吉の生涯』(大陸書房)が元ネタだという。この本には千里眼に関わる福来友吉博士、御船千鶴子、高橋貞子が登場し、それぞれは『リング』の登場人物、伊熊平八郎、山村志津子、山村貞子のモデルになったと思われる。(ただし貞子は名前のみ)

近年もテレビ等で何度か取り上げられているため、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。こういった番組で彼女が取り上げられる際は、超能力は本物らしかったものの、当時の頭の固い学者連中やマスコミによってその能力を否定され、自殺に追い込まれてしまった悲劇のヒロイン、という扱いで紹介されることが多い。

ところが実際に当時の資料を詳しく調べてみると、こうした悲劇のヒロイン像とは違った様子が見えてくる。以下では当時の資料を中心に千鶴子の実像について考察してみたい。

千鶴子の透視のスタイル

千鶴子の実験は、東京帝国大学の福来友吉博士と京都帝国大学の今村新吉博士が中心になって行われた。実験の記録も主に二人が残している。

その記録を読んでみると、千鶴子が透視を行う際、ほぼすべての実験に共通して要求していたのは、「実験中に立会人に背を向けて透視を行うスタイル」だったことがわかる。

また中には立会人と離れた別室にて一人で透視を行ったり、(ふすま)を閉じた密室で行ったりすることもあった。実験で透視に使われたのは、のり付けされた紙の封筒が大半である。

東京高等師範学校の後藤牧太教授によれば、千鶴子の透視実験でよく使われたものと同じ、のり付けした紙に認印を押したものを自ら作り実験したところ、次のような結果を得たという。

唾で濡らして紙封を剥がすのに四十二秒を要し、認印を合わせるのに一分半を要し、肌にあてて乾かすのに四分を要し、合計およそ六分半を要した。

さらにその他の一見、厳重そうに見える封じ方も実は密かに開封して戻すことが可能であることも示し、「かような封じ方では実験が実験とならない」と指摘している。

つまり手元が見えない状況で開封可能な実験物で実験の成功を重ねても、ほとんど意味はないということだった。

東京での公開実験

こうした中、明治43年9月14日、千鶴子の実験として最も有名になる東京での公開実験が開催された。

この実験では主催者側の福来、今村の両博士に加え、千鶴子の父・御船秀益、義兄・清原猛雄、さらには東京帝国大学の元総長・山川健次郎ら、当時を代表する錚々たる学者や各新聞社の記者も参加したため、話題となった。

集合写真

左から今村新吉、井芹経平、御船千鶴子、清原猛雄、福来友吉。
出典:『日本「霊能者」列伝』(宝島社)

一般的には、この公開実験で千鶴子は実験物のすり替えを疑われてしまったためにバッシングを受けたと考えられている。

しかし本当にそうなのだろうか。このときの実験を振り返ってみよう。実験は、東京の大橋新太郎邸で行われた。立会人は福来、今村、山川をはじめとした14名。千鶴子に透視してもらう実験物は、平にした鉛の管の中に紙を収め、両端をハンダ付けしたもので、山川博士が20個用意した。

鉛管

左が鉛管。この中に右のような字が書かれた紙を入れる。
出典:『日本「霊能者」列伝』(宝島社)

実験では、この鉛管の中から1個が選ばれ、千鶴子に渡された。彼女は二階に上がると実験をするために用意された部屋に屏風を立てて、その中で透視を開始。立会人は二人で、二階の別室にて待機していた。

このときの注意点は、千鶴子は屏風の中に隠れていたため、別室にいた二人には千鶴子の手元はおろか、後ろ姿さえ見ることができなかったという点である。

2008年に放送された「新説!?日本ミステリー」(テレビ東京)という番組では、このときの再現映像として屏風の横から立会人が手元を見ていたかのように放送していたが、完全に創作である。他にもまったく別の実験の記録を、この公開実験の記録だと偽ったり、明らかに故意だとわかるデタラメな点が多かった。

こうした状況で、しばらくすると千鶴子は屏風の中から姿を現し、透視できた文字は「盗丸射」の3文字だと回答。一階に戻ってみんなの前で中身を確かめると、確かに「盗丸射」と書かれた紙が入っていた。透視は成功である。

ところが、この3文字を見た山川博士は不思議に思った。彼が用意した20個の実験物の中には「盗丸射」と書かれた紙は入っていなかったからだ。別紙にあらかじめ書かれていた答えの控えを見ても、千鶴子が答えた文字は含まれていなかった。

では一体、千鶴子が答えた文字と鉛管はどこから出てきたのか? 現場の大橋邸では、みんな不思議がったものの、山川博士が前日に、福来博士から鉛管の模型を一つ渡されていたため、それがうっかり混ざってしまったのではないか、ということで意見がまとまった。

ここで注目しておきたいのは、この時点で誰も千鶴子のすり替えを疑っていないという点だ。では、すり替えの話はいつ出てきたのか。それは実験当日の夜だった。実は、この日の夜、宿に戻った福来博士が千鶴子と話し合った結果、千鶴子本人がすり替えを認めたのである。

千鶴子によれば、彼女が透視した文字は、前日に福来博士が練習用として渡していた鉛管の中身だったという。彼女は、この練習用の鉛管を実験の当日に「お守り」として持参し、透視を行った際にも懐中に忍ばせていたという。しかし当日に渡された鉛管は透視できなかったため、代わりに練習用の鉛管を透視して提出したというのだ。

つまり、あくまでも中身は透視したものの、実験物は練習用とすり替えてしまったというのが本人の言い分だった。福来博士も自身が前日に練習用として鉛管を渡していたこと、さらにはその鉛管の中身が「盗丸射」だったことは知っていたため、千鶴子がすり替えたであろうことは認めている。

この話は翌日、山川博士にも伝えられた。報告を受けた彼は、新聞社の取材に対し次のように語っている。

「実験が完全でなくなったのは甚だ残念である。もしこれを悪意に解釈すれば大橋邸へあれを持ってくる前に開いて見たのであるまいかと思われるが、私は全然そんなことはあるまいと信じている。私は以前から 千鶴子の透覚力について種々の人からも話を聞いて、余程、信を置いているし、第一、かの婦人が見るから不正なことをしようとは思われぬ。(中略)私はこの点に関してほとんど疑っておらぬが、しかしそれは私が信ずるだけで、第三者に向かっては昨日の実験を完全なるものであるということは出来ぬ」(「私は信ずる」『東京朝日新聞』明治43年9月17日付け、第五面より引用)

つまり山川博士は個人的に千鶴子を信用している一方で、実験については第三者に向けて完全であるとは言いがたい、ということを述べている。内容的にはきわめて穏当だ。

しかし悲しいかな、山川博士は元東京帝国大学総長という肩書きもあってか、頭ごなしに否定する学者の代表格のように思われがちである。千鶴子を好意的に扱った番組などでも、大抵は嫌な学者の役回りをさせられることが多い。

ところが実像はだいぶ違う。またすり替えの話も学者やマスコミが言いだしたことではなく、千鶴子本人が言い出した話であることは留意しておきたい。

甘かった実験条件

ちなみに東京での実験は、二日目と三日目も行われ、こちらは普通に成功している。ただしこれらの実験は、普段、千鶴子がやり慣れている方法がいいだろうから、という山川博士の配慮の結果、鉛管は使われなかった。

また持ち物検査はなく、手元を見られない状況での実験は、初日から一貫して続いていた。率直に述べれば、実験の条件としてはかなり甘い。けれども、なぜこのように甘い条件で実験が行われていたのかというと、結局、実験は能力者とされる側のペースで進むものだからだと考えられる。

実験というのは、あくまでも学者の側が「させてもらう」立場で、能力者側の機嫌を損ねれば実験は成り立たない。能力者側は学者のお墨付きを得られれば、それに越したことはないものの、大抵の場合、すでに支持者はたくさんついている。そのため実験をしなかったところで、別に困ることはない。

東京での公開実験も、上京の目的は実験をするためではなかった。熊本・細川家の16代当主、細川護立の妻、博子に子どもができなかったため、当時、東京にいた博子を透視するために企画されたものだった。

また東京見物も兼ねており、実験は「千鶴子の機嫌が良く、精神統一できる日があれば」やるかもしれない、という程度の「ついで」の扱いだった。

これらも、学者側が何か偉そうに呼びつけて実験をやらせた、というものではなかった点は留意しておきたい。

熊本での最後の実験

東京での公開実験から2ヶ月後の明治43年11月17日と18日。結果的に千鶴子にとって最後となる実験が地元の熊本で行われた。実験を行ったのは福来博士で、彼は18日の午後の実験を最も意味のある実験だと考えていたようである。

それは、千鶴子が初めて手元を見せた状態で行った実験だったからである。(部屋と部屋との間の鴨居から毛布を垂らして顔は隠していた)

このときの実験では、2個のサイコロを巻きタバコの箱に入れ、紙にて封をし、つなぎ目には認印を捺した。そしてこの箱を福来博士が数回振ってから千鶴子に渡し、中にある二つのサイコロの上の目を透視するように依頼した。

手元が見えているため、封をひそかに解くことはできない。気になる結果は5回中3回が成功というものだった。なかなか良い結果である。

ところが残念ながら、この実験には問題点があった。日本超心理学会の初代会長だった小熊虎之助は次のように指摘している。

千鶴子の透視実験のうち、学術的な実験はただ第六回の実験だけにすぎなく、しかも透視の適中したのはただ五回のうち三回にすぎない。このような少数の実験とその適中とで、確実にこの透視という殆ど前例のないような新能力の存在することを断言し得るのだろうか。そのような断定はあまりに蒼急すぎることは明炳である。
(中略)元来確率は、実験の回数が多いほどその確かさの度を増すものであるから、透視を少なくとも二三十回位して、それでもその結果が三十六分の一よりも多いというなら、かなり透視能力も確かになってくる。ただ五回のうち三回当たったというだけでは、偶然の適中、詳しくいうと、透視能力以外の普通の原因からの適中ではないという、十分な証拠にはならないのである。

『心霊現象の科学』(芙蓉書房)より

ここで小熊が指摘している「透視能力以外の普通の原因」とは、たとえば次のようなものだ。18日のサイコロ実験では、1回ごとに箱の封を解いて正解を確認していた。そのため、2回目以降は前に出た目がわかった状態になる。

巻きタバコを入れる箱というのは小型なため、サイコロを入れて振ってもうまく回らず、同じ数が続けて出てしまうことがある。またサイコロ自体の作りに偏りがあった場合、やはり同じ数が続けて出てしまう可能性も考えられる。

実際、実験では二つのサイコロで、「5」の目が4回連続、「2」の目も2回連続で出てしまっている。正解したのも、この連続で出たうちの3回で、手がかりがなかった初回は二つの目とも外している。

つまり成功したのは、前の目からの推測の可能性も考えられるわけである。本来なら、これらの可能性を排除するためにも、実験物はサイコロが良く回る大きな箱を用い、実験が一回終わるごとに答えを確認せず、サイコロは複数用いるなどの対策を取るべきだった。また実験回数も小熊が指摘するように、もっと増やせれば信頼性は高まったと考えられる。

しかし残念ながら、こうした対策は取られることなく、実験は永遠に終わってしまった。翌年、千鶴子が亡くなってしまったのである。

千鶴子の死

千鶴子は明治44年1月18日、染料用の重クロム酸を服毒し、翌19日の朝に亡くなった。24歳という若さだった。

重クロム酸は本人が買い求め、18日の午後3時半頃に服毒したと考えられている。服毒後は12名の医師が呼ばれ、手当が施された結果、19日の未明には容体は一時安定した。

しかし同日午前3時頃、再び苦しみだしたため、駆けつけた親族が「遺言はないか」と聞いたところ、「いえ、何も申し上げることはありません」と千鶴子は答えた。そして同日午前5時頃、最期は眠るように亡くなったという。

本人が自殺の理由を語っていないことから、その原因については様々な憶測が飛び交った。しかし当時から最も有力視されていたのは、親族間の不和が原因とするものである。

これは千鶴子の父・秀益と、義兄の清原猛雄との間で、千鶴子を巡る争奪戦があったというものだ。もともと千鶴子は義兄が営む治療院で透視を行っており、千里眼の噂を聞きつけた人たちの間で大人気となっていた。そのため、かなりの利益を上げていたとされる。

そこに目を付けたのが父・秀益で、彼も千鶴子を利用しようと考えた。しかし清原猛雄はそれをなかなか認めない。そこで板挟みにあったのが千鶴子というわけである。彼女は明治43年の東京での公開実験後、福来博士に「一人で東京へ逃げ帰りたい」とまで書いた長文の手紙まで送っている。

千鶴子は自分が利用されることに嫌気がさしたのだろうか。いずれにせよ、24歳での死は早すぎた。悔やまれる最期である。

【参考資料】

  • 福来友吉 『透視と念写』 (福来出版)
  • 寺沢龍 『透視も念写も事実である』 (草思社)
  • 長山靖生 『千里眼事件』 (平凡社)
  • 一柳廣孝 『「こっくりさん」と「千里眼」日本近代と心霊学』 (講談社)
  • 後藤牧太「千里眼婦人の実験について」『東洋學藝雜誌』(27(350) 1910.11)
  • 中沢信午『超心理学者 福来友吉の生涯』(大陸書房)
  • 小熊虎之助『心霊現象の科学』 (芙蓉書房)
  • 「驚きももの木20世紀」(テレビ朝日、1997年6月20日放送)
  • 「新説!? 日本ミステリー」(テレビ東京、2008年4月22日放送)
  • 「日本史サスペンス劇場」(日本テレビ、2008年11月12日放送)
  • 「天眼通の研究」『東京朝日新聞』(明治43年4月25日付け、第五面)
  • 「神通力の端緒」『東京朝日新聞』(明治43年9月2日付け、第五面)
  • 「千里眼婦人来る」『東京朝日新聞』(明治43年9月11日付け、第五面)
  • 「千鶴子の能力」『東京朝日新聞』(明治43年9月13日付け、第五面)
  • 「千里眼の失敗」『讀賣新聞』(明治43年9月15日付け、第三面)
  • 「十博士と千鶴子」『東京朝日新聞』(明治43年9月16日付け、第五面)
  • 「透覚実験の間違」『東京朝日新聞』(明治43年9月17日付け、第五面)
  • 「十四博士の驚嘆」『東京朝日新聞』(明治43年9月18日付け、第五面)
  • 「千鶴子毒死す」『東京朝日新聞』(明治44年1月20日付け、第五面)
  • 「千里眼 千鶴子自殺す」『讀賣新聞』(明治44年1月20日付け、第三面)
  • 「熊本の千里眼婦人御船千鶴子 劇薬を仰いで自殺す」『九州日日新聞』(明治44年1月20日付け、第三面)
  • 「千鶴子毒死 除聞」『東京朝日新聞』(明治44年1月21日付け、第五面)
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