法廷で認められた神通力?「長南年恵」

伝説

長南年恵は、その神がかった数々のエピソードから「女生神」(おんないきがみ)と呼ばれた稀代の大霊媒である。

長南の読みは「ちょうなん」と「おさなみ」の2つがある。本来、地元での読みは「ちょうなん」だったそうだが、親族が大阪で商売をしていた際は読みを「おさなみ」に改めたため、その親族のもとで生活していた大阪時代は「おさなみ」と名乗っていた。そこで2つの読み方が残ることになったようだ。どちらかが間違っているということはない。

1863年(文久3年)、現在の山形県鶴岡市に生まれた年恵は、霊媒としては遅咲きながら29歳の頃に霊能力を開花。以降、自ら飲食は一切しないで不飲不食を貫くという、まるで生き神のような奇跡を見せた。

また年恵は何もないところから物品を出現させる、いわゆる「アポーツ現象」を得意としていた。中でも空きビンを水で満たす現象を最も得意としており、その現れた水を飲むと難病も奇跡的に治癒したという。この水は「霊水」または「神水」と呼ばれた。

長南年恵

長南年恵。出典:丹波哲郎『霊人の証明』(中央アート出版社)

しかし、こうした年恵の神ががった力を認めたがらない者たちがいたことも事実である。その中には警察官もいたため、年恵は度々、勾留されることがあった。ところがその度に彼女は、拘置所でも不飲不食やアポーツ現象などの奇跡を起こして周囲を驚かせている。

明治32年には、こうした拘置所での数々の奇跡を認めさせるため、年恵の弟であった長南雄吉が、山形県監獄鶴岡支署長宛に8つの奇跡を記した「事実証明願」を提出。この証明願は表向きは却下されたものの、支署長からの返書には事実と認めることが書かれてあった。さすがに黙殺することができなかったのだろう。

けれども年恵の霊能力を認めるものはこれだけではない。最も決定的なのは、明治33年、大阪の雄吉のもとに年恵が滞在していた際に起きた、いわゆる御霊水裁判である。

これも警察の不当な勾留から始まり、それを不服とした年恵側が裁判で決着をつけようとしたものである。裁判は神戸地方裁判所で行われた。そのときの様子は次のようなものだったという。

まず裁判長が年恵に次のような問いかけをする。

被告はこの法廷においても“霊水”なるものを出すことができるかね。

年恵は次のように答えた。

それはおやすいご用でございます。ただ、ちょっと身を隠す場所を貸してください。

これにより、法廷でアポーツ現象を試験するという異例の展開となった。年恵は事前に服を脱がされて検査され、何も隠し持っていないことが確認されている。もはやトリックの余地は一切ない。用意された別室(何もない空き部屋)に封がされた空きビンを持って移動すると、そこで霊水出現の瞑想が行われた。

そして2分後。ついに部屋の中から、霊水で満たされたビンを手に持つ年恵が現れた。トリックの余地がない法廷でも奇跡を起こした瞬間である。霊水はその後、確認されたが何も怪しいところは見つからなかった。

奇跡を目の当たりにした裁判長は次のように問いかけ、年恵は返答した。

「この水は何病にきくのか」
「万病にききます。特に何病にきく薬と神様にお願いしたわけではありませぬから」
「この薬をもらってよろしいか」
「よろしゅうございます」

このときの霊水は酒の味がしたという。こうして尋問は終わり、即刻無罪の判決が出て裁判は決着がついた。年恵の勝利である。稀代の大霊媒が、法廷において自身の霊能力、神通力を認めさせた歴史に残る画期的な裁判であった。

年恵はその後、鶴岡へと帰郷し、明治40年、44歳でこの世を去った。死の2ヵ月前には自身の死を予言し、最期まで神がかった力を見せていたという。(以下、謎解きに続く)

謎解き

今日、年恵のエピソードとして残っているものの多くは、彼女の支持者や弟・雄吉によって伝えられたものである。中でも、雄吉によるエピソードは【伝説】の中核をなすと言ってよい。

しかし、そのエピソードは本当に信用できるのだろうか? まずはその基本的なところから調べてみよう。

エピソードの信頼性

そもそも雄吉が語る年恵のエピソードは、大正12年6月に、心霊研究家の浅野和三郎に対して初めて披露されたものである。大正12年といえば、話の中心となる明治30年前後の時代からは25年近くも経っていた。

この時間の経過だけでも信頼性に疑問符がつく。けれども判断材料は他にもある。雄吉によれば、明治33年に大阪朝日新聞の記者に来てもらい、年恵のアポーツ現象を取材してもらったことがあるという。

記者は角田といい、雄吉から記者の名前を聞いた浅野は面識があることを思い出している。浅野は「あの人なら相当正確な記事を書いたでしょう」と話し、雄吉は「左様、記事は相当正確に書いてありましたが」と答えている。

雄吉によると、当時の光景は「はっきりと私の眼底に残っている」といい、取材当日、記者と10数名の支持者を前に、年恵はアポーツ現象を起こすべく祈りを捧げたという。するとわずか10分後。3方に置いてあった空きビンが、まるで虹のように麗しい色彩に急変し、霊水で満たされたという。

このエピソードを見る限りは、まるで奇跡が起こったように思える。しかし実際はどうだったのか? 当日の様子は明治33年7月9日~11日にかけて連載された大阪朝日新聞の紙面に記載されている。

結論から述べれば、その様子は雄吉の語るエピソードとまるで違う。記事によれば霊水出現の祈祷が始まったのは午前11時30分。その後、何度も中断があり、結局、霊水が出現したのは午後3時30分。開始から4時間も経っていた。

しかも祈祷の儀式は下の図のような部屋で行われた。

見取り図

図のAの部屋は記者や支持者たちが座っていた場所。敷居を隔てたBの部屋には奥に供え物や幕が吊ってあり、その手前には二畳台が敷いてある。霊水を入れるビンは、この二畳台に置かれた3つの台の上に置かれていた。

年恵は図の黒丸の位置に座り、二畳台の方を向いている。そのため彼女の手元は後ろの部屋にいた他の人たちからは一切見えなかった。Cの部屋は空き部屋で、この部屋からならよく手元が見えたはずだというが、年恵と雄吉は記者たちを決して入れさせなかった。

さらに霊水は、3つの台に置いていたときにはまったく出現せず、午後2時30分頃に、年恵がビンを胸に抱えるようにしてから1時間後にようやく出現したという。色は雄吉の語る虹のような色ではなく、ぶどう酒の色だった。

このように怪しい点が多いことから、当然、霊水の出現をそのまま鵜呑みにはできない。記者の推理では、年恵はたとえば服の中に管つきのゴム製の袋を隠していて、その中に入れておいた薬水を密かに移したのではないかという。

記者が出現した霊水の入ったビンを触ると生ぬるかったという。出現してそれほど時間が経っていない状況では水はまだ冷たいはずで、ビンもすぐに冷えるはずだ。ところが、そうなっていなかったことから腹に隠している間に水が温くなってしまったのではないかと推理している。

水を移したと考えられるタイミングは最後の胸に抱えていたときだ。このときはすぐ横に雄吉がおり、手元が見られない状況ではビンの中に用意しておいた水を入れることも、それほど難しくはなかったと考えられる。

時間が4時間もかかったのも、記者の取材によれば、普段はふすまを閉じた状態で霊水が出現するのに対し、この日はふすまを開けて最初はビンを置いていたことが影響したと考えられるという。要するに普段から、霊水が出現するところは隠されていたということだ。

信憑性を判断する材料はまだ他にもある。明治33年6月17日と19日には、同じく大阪朝日新聞で年恵が取り上げられている。この時の記事によれば、年恵が祈祷を行っていた雄吉の自宅には「惟神(かんながら)大道教会」の標札が掲げられていたという。

この「惟神大道教会」は、雄吉が浅野に語った話では、大阪から帰郷後の明治34年に年恵の信者が勝手に作った宗教団体ということだった。ところが実際は大阪時代からすでに存在し、雄吉の自宅にも堂々と標札が掲げられていたことが当時の記事によってわかる。

記事によれば、年恵はここで霊水を売ったり、祈祷料をもらったりすることで生活をしていたという。記者が取材した際には、霊水を飲んだことで病気が治った者が何人もいると宣伝され、高名な人物としては東区内本町に住む工学士や、東区東雲町に住む一等軍医なども信者だとされていた。

ところが、記者がその工学士や軍医を調べてみると、そのような人物は実在しないことがわかった。また売られていた霊水を警察が押収して調べたところ、中に薬剤が入れられていたことが判明し、年恵は玉造警察署長より3日間の拘留処分を受けている。(このときのことを雄吉は浅野に話していない)

以上のように、雄吉が語るエピソードは誇張が激しかったり、事実誤認が含まれていたり、都合が悪そうな話は語っていなかったりと、その信頼性には疑問を抱かざるを得ない。

事実証明願

さて、ここからは年恵に関する主なエピソードのうち、事実証明願と霊水裁判、不飲不食を取り上げていく。まずは雄吉が山形県監獄鶴岡支署長宛に送った「事実証明願」である。

この証明願自体は記録が残っており、次の8つの出来事を事実として認めるよう要請する内容が記されている。

(1)小便、大便をまったくしなかった事。

(2)絶食だった事。(最初の60日間は強制された芋を一日少量のみ、後の7日間は絶食)

(3)拘留中、前署長の求めに応じ、監房内にて霊水1ビン、お守り1個、経文の一部、薬を一服、何もないところから出現させた事。

(4)囚人の求めに応じ、薬をアポーツ現象で与えたが、後に囚人の身体検査が行われ、その薬の実在が確かめられた事。

(5)監房内へ神々がご降臨しますと年恵が言うと、係官は空中から笛の音や鳴り物の音を聞いた事。

(6)毎夜神々が年恵の髪を結ってくれたために、監房内での年恵の髪は常に結いたてのように艶があった事。

(7)一斗五升(約27リットル)の水を大桶に入れ、容易に運搬できた事。

(8)夏期でも蚊にまったく刺されることがなく、ついには年恵一人だけ就寝時に蚊帳の外で寝ていた事。

もしこれが事実ならば、十分にすごいことだ。ただしここで注意する必要があるのは、これらの出来事は監獄側の資料などに記されているわけではないということである。あくまでも雄吉や年恵側が一方的に主張し、送りつけた証明願なのである。

当然ながら山形県監獄鶴岡支署長からの返書は、簡潔に「長南年恵在監中之儀に付願出の件は証明を与ふるの限りにあらざるを以て却下す」と記され、証明願はあっさり却下された。

ところが雄吉はこの短い返書を読んで、「却下はされたが事実は事実として認められた」と解釈した。理解しがたい迷解釈である。けれどもこの迷解釈は、話を聞いた浅野和三郎、さらには後に年恵の伝記を書いて世に広める俳優の丹波哲郎にも受け継がれ、今日では上記の出来事がまるで事実であったかのように語られることもしばしばだ。

しかし支署長の返書を見ればわかるとおり、事実だと認められているわけではない。雄吉の解釈は明らかに我田引水である。

霊水裁判

続いては霊水裁判。この裁判は明治33年12月12日に神戸地方裁判所で開かれたという。そこでまず私は神戸地裁へ問い合わせ、当時の記録を探してもらうことから始めることにした。地裁の記録が最も重要だからである。

ところが残念なことに、明治時代の裁判記録となると古すぎて、現在では残されていないことがわかった。そのため裁判所の記録は参照できない。残るのは、雄吉が大正12年に浅野に語ったエピソードと、当時の新聞記事。

幸い、記事は明治33年12月14日付けの大阪毎日新聞のものが見つかった。記事を読む限り、裁判が開かれたことや、霊水出現が成功したこと、年恵に無罪判決が下ったことなどは確かなようである。

そこで、検証したいのは次の2点だ。霊水出現は霊能力によるものだったのかという点と、年恵の無罪判決は霊水出現と関係があったのかという点である。

霊水出現は霊能力によるものだったのか

まず前者。霊水出現の前に、厳重な身体検査が行われたことは大阪毎日新聞の記事にも書かれている。そのため、年恵が空きビン以外、何も持たずに服を着た身一つで空き部屋に入ったことは確かだと考えられる。

また空き部屋はもともと弁護士が詰める電話室で、試験の前には塵一つ残さぬほどきれいに掃除されたとも書かれている。よって部屋にも不審な点はない。

ではそのようにトリックが一切封じられたように思える状況において、空きビンを液体で満たした状態にすることは霊能力以外では不可能なのだろうか?

実は方法がひとつある。唯一検査されていない年恵の体内にある液体を使う方法だ。つまり、尿である。奇想天外だろうか。実はそうでもない。大阪毎日新聞の記事によれば、現れた霊水の色は「濃い黄色」をしていたというからだ。まさに尿そのものである。

また部屋に入ってから出てくるまでは、雄吉の話とは違い、同記事によると5分あったというから時間的にも無理はない(ビンに封がされていた記述もない)。また通説では裁判長と年恵のやり取りがあり、裁判長が霊水をもらったことになっている。

ところがこれは雄吉が語るエピソードにしか出てこない話で、大阪毎日新聞の記事にはそういったエピソードは一切出てこない。

また酒の味がしたという話は、医師の西他石が『狐・狸・霊魂』という著書に書いていることだが、この本に書かれている年恵のエピソードは到底信用できない。というのも、この本では年恵の名前、生まれた年、裁判が起きた年を大きく間違った上、別室に入って出した霊水を法廷にいる人たちの面前で出現させたことにしているからだ。

つまり、根本的な前提情報からして間違いだらけなのである。酒の話も西が学生時代に聞いたという伝聞情報に過ぎない。

よって、ビンに満たされた液体の正体が調べられたという証拠はないのが現状である。当時、現場に居合わせた人たちは尿の可能性に気づいていなかったようであるから、もし液体が調べられなければ、尿だとバレることもなかったと考えられる。

しかしそうだとすると、なぜ霊水裁判で霊水をよく調べなかったのかという疑問がわく。

年恵の無罪判決は霊水出現と関係があったのか

実はここで、先の2番目の問題点が関係してくる。年恵の無罪判決は霊水出現と関係があったのかという点だ。

従来、裁判の流れは、裁判長の問いかけ→試験→霊水出現→無罪判決の順だと思われてきた。ところがこれは後年に雄吉が語ったエピソードに過ぎない。実は当時の記録である大阪毎日新聞の記事を読むと、順番と中身が変わってくるのである。

最初にくるのは「証拠不十分を理由とした無罪判決」で、この判決が出たあと、好奇心を持った「弁護士たちが年恵に試験を申し込み」、年恵が応じて「霊水出現」という流れになるのだ。

つまり、これだと裁判は最初に終わっていたことになる。霊水の試験は判決後に弁護士たちが始めた個人的なもので、裁判の結果とはつながりようがない(「法廷(or裁判)で認められた」というのも明らかに間違い)。

個人的な試験であれば、中身の確認までしなかった可能性はある。(前出の明治33年7月に行われた大阪朝日新聞の取材でも中身の確認まではしていない)

このように尿を使ったトリックと、判決とはつながりがない試験は互いに関係があったように考えられる。ただ、もちろん正式な裁判記録が残っていない現状では、トリックや裁判の状況を断定することはできない。

不飲不食

最後は不飲不食について。これは、当時、第三者による検証が行われていない。残っているのは支持者や雄吉たちが語るエピソードばかりだ。

もともと不飲不食の伝説は、年恵に限らず昔から多い。しかし24時間監視のもと長期間不飲不食を達成できた者はいない。どんなにエピソードはすごくとも、実際に検証されると話が違ってくるものだ。

一例を挙げよう。1999年、オーストラリアの『60ミニッツ』という番組にて、エレン・グレーブというカルト教団の教祖の検証が行われた。彼女の主張によれば、不飲不食は1993年から続いているという。本当であれば実験のクリアは楽勝のはずだった。

ところがいざ実験が始まると事態は違った。開始から4日後には、グレーブは脱水症状を起こし、瞳孔は広がり、話し方は遅くなり、脈拍数も倍に跳ね上がっていたという。とても危険な状態だ。実験はここで中止され、グレーブの不飲不食が実証されることはなかった。

年恵の場合も、こういった実験をクリアしていないため、残されたエピソードをそのまま信用するわけにはいかない。

とはいえ彼女自身、不飲不食を演出するために多少の無理はしていた可能性がある。その結果が、40代半ばでの死という最期を招いたのかもしれない。聖者に祭り上げられた者の悲運である。

【参考資料】

  • 浅野和三郎「長南年恵の奇蹟的半生」「長南年恵物語補遺」『近代庶民生活誌19』(三一書房、1992年)
  • 丹波哲郎『霊人の証明』(中央アート出版社、1983年)
  • 「女生神」『大阪朝日新聞』(明治33年6月17日付け、第五面)
  • 「女生神の拘留」『大阪朝日新聞』(明治33年6月19日付け、第五面)
  • 「女活神の真相」『大阪朝日新聞』(明治33年7月9日付け、第九面)
  • 「女活神の真相(つづき)」『大阪朝日新聞』(明治33年7月10日付け、第九面)
  • 「女活神の真相(つづき)」『大阪朝日新聞』(明治33年7月11日付け、第九面)
  • 「女生神の試験」『大阪毎日新聞』(明治33年12月14日付け、第七面)
  • 「全国長南会通信 11号」(全国長南会、2003年5月5日)
  • 西他石『狐・狸・霊魂』(ベストセラー社、1959年)
  • ロバート・T・キャロル『懐疑論者の事典・下』(楽工社、2008年)
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