御船千鶴子


伝説 明治19年(1886年)、日本で始めて科学的に調査されることになる超能力者が熊本に生まれた。彼女の名前は御船千鶴子。 「千里眼」 ( せんりがん ) とも呼ばれる驚異の透視能力を持った超能力者である。

御船千鶴子千鶴子は、義兄の清原猛雄に催眠術をかけられ、誘導されたことをキッカケに超能力者として目覚めた。22歳の頃には本格的に透視を行うようになり、熊本では姉夫婦(清原夫妻)が開業していた治療院で、透視能力を使った治療を行うようになっていた。

彼女が本格的に調査されるようになるのは、それから約2年後の明治43年である。東京帝国大学(現・東京大学)の助教授・福来友吉とは、この頃に初めて出会った。

千鶴子と福来は、数々の実験を行い、封筒や鉛筒の中身の透視などを成功。しかし多くの学者は否定的な立場を取った。そして明治43年9月、東京で学者立会いのもと行われた公開実験において、千鶴子は実験物のスリ替えを疑われてしまい、これをキッカケに、マスコミや学者は彼女に否定的な論調を強めていく。

そして明治44年1月18日、失望の中、自ら染料用の重クロム酸カリを服毒し、24歳の若さで自殺してしまったのである。


【写真引用元】
『千里眼事件』 長山靖生【著】(平凡社新書) P.33より



 

謎解き 千鶴子は日本の超能力者の中では比較的知名度があり、近年でも日本テレビの「知ってるつもり!?」「日本史サスペンス劇場」などで取り上げられている。

彼女が紹介される際は、「超能力は本物」らしかったが、当時の頭の固い学者連中やマスコミによってその能力を否定され、自殺に追い込まれたてしまった悲劇のヒロイン、という扱いで紹介されることが多い。

しかし、こういった「悲劇のヒロイン」像は事実をずいぶん歪めている。以下では日本のテレビでは隠されることの多い真相を詳しく探ってみることにしたい。


▼数々の実験

  ・第1回通信実験

 ▼今村新吉博士による実験

 ▼福来博士と今村博士の共同実験

 ▼共同実験後の両博士

 ▼京都での実験

 ▼東京での公開実験

 ▼熊本での最後の実験

 ▼例外的な実験

 ▼千鶴子の死


数々の実験

御船千鶴子に対して行われた実験はいくつもあるので、まずは以下でその詳細を紹介しよう。


第1回通信実験

この実験は、福来博士が千鶴子に対して行った最初の実験である。時期は明治43年2月のことで、博士は以前から熊本済々黌中学の校長・井芹経平から千鶴子の実験を依頼されていたが、なかなか熊本行きの都合がつかないでいた。そこでまずは博士が熊本入りする前に、予備実験というかたちで実験を行ったのである。

実験は福来博士が用意した名刺の中から任意に19枚を抜き出し、各名刺の一部、あるいは全部に錫(すず)の箔(金属をたたいて薄くのばしたもの)を貼り付け、さらにそれぞれに不透明の白いカードを重ねて袋に収め、のりづけして封をした。封筒の封じ目には大きな紙をのり付けし、その境目には自分の印鑑をいくつも押印した。

そして、この実験用の封筒19通(それぞれに番号が振られていた)は、井芹校長のもとへ郵便小包で送り、千鶴子に封筒の中身を透視してもらうように依頼。
井芹校長からは2月の下旬に、千鶴子が透視完了した実験物が返送されたが、中身を確認してみると19通あった実験物のうち、実際に返送されてきたのは7通だけしかなかった。

同封されていた説明書きによると、3つは精神統一中に居眠りして火鉢に落とし、残りの9つは疲労のため透視を中止したと書かれてあった。
下記は、返送されてきた実験物の中身と、千鶴子の透視結果である。(長さの単位は分かりやすいようにセンチとミリに換算した)

【第1回通信実験の詳細】

リンク先の表を見比べてもらえばわかるとおり、千鶴子は以下の7箇所を間違え、残りは正解した。

  • 6番で「井」を「水」と誤る。
  • 8番で「塚」を誤る。
  • 9番で「穰」を誤り、「恭」も「忝」と誤る。
  • 10番では「恭」を「忝」と誤り、「芳藏」と、住所の部分を見落とす。

この透視結果を得た福来博士は、後の著書『透視と念写』の中で「余は甚だしく驚愕したり」と書き、『心霊と神秘世界』の中では、「透視能力あることを信じた」と書いている。

しかし、この結果は透視能力があることを示すには十分といえるだろうか? 私は大きな疑問があると思っている。
上でも書いたとおり、19通あった実験物のうち、千鶴子が返送してきたのはたった7通で、残り3通は居眠りして火鉢に落とし、9通は疲労のため中止してほしいと、福来博士に申し入れている。

もともと千鶴子の住んでいる家で行われ、しかも監視人などいない状況の通信実験という時点で、「実験」と呼ぶこと自体無理があると思うが、さらに返送してきたのが半分以下の7通では話にならないだろう。

また実験物は全部のりづけなので剥がすことが可能であり、もし失敗した場合でも返送しなければ失敗がバレることはない。(実際19通のうち12通は返送してない)

結局、疑惑を払拭できない底抜けのトリック防止策では、残念ながら「実験」としての意味はほとんどないといえる。


今村新吉博士による実験

京都帝国大学の今村新吉博士は、ちょうど福来博士の通信実験とほぼ同じ時期の明治43年2月19日に、千鶴子の透視実験を行うために熊本を訪れた。

実験が行われた場所は千鶴子の義兄・清原猛雄の自宅兼治療院で、実施日は2月20日と21日の2日間。実験は名刺ほどの大きさの白い厚紙に、それぞれ文字や図を書き、そのカードを紙に包んで封筒にノリ付けして封入。同じものは12個用意された。

下記リンク先は、実験物の詳細と千鶴子の透視結果である。(透視も念写も事実である寺沢龍 (草思社)を参考)

【今村新吉博士による実験の詳細】


この実験を含む他のほぼすべての実験も同じだったのだが、千鶴子は実験中に立会人に背を向けて透視を行うことを要求していた。

つまり実験では、千鶴子の背中しか見えず、手元を含む正面はまったく見えない状況で行っていたのである。(この点に関しては、千鶴子のことを信じていた福来博士もマズイと思っており、何とか正面を向いて透視を行えるようにならないと、他者から非常に怪しいと思われてしまうことは自覚していた)

ちなみに東京高等師範学校の後藤牧太教授によれば、今回の実験を含む千鶴子の透視実験でよく使われたものと同じ、ノリ付けした紙に認印を押したものを自ら作り実験したところ、「唾で濡らして紙封を剥がすのに四十二秒、認印を合わせるのに一分半、肌にあてて乾かすのに四分、合計六分半を要する」などの結果を得たという。(実際は慣れればもっと時間を短縮可能)

また「福来博士のように紙封を十文字にすると約八分を要すが、いずれにしても、このような開封可能な封じ方では千鶴子の能力を検証し得ない」とも指摘している。

今回の実験も紙をノリ付けして封をしただけなので、イカサマ防止策としては明らかに不十分である。(しかも正面を向いて正々堂々と透視をしたのならともかく、後ろを向き手元と実験物を隠して行った実験であることを忘れてはならない)


福来博士と今村博士の共同実験

続いて行われたのは、今村博士の実験から約1ヶ月半ほど経った明治43年4月10日に、井芹校長の仲立ちによって実現した、福来友吉博士と今村新吉博士の共同実験である。

この実験は4月10、11、12、13、15日の計5日間行われた。
以下は、それぞれの詳細である。(『心霊と神秘世界』福来友吉【著】(心交社)、『透視も念写も事実である』寺沢龍 (草思社)を参考)


実験1日目   

【共同実験1日目の詳細】


この日の実験において成功したのは、第2回目の実験のみだった。
第1回目では手を触れないように依頼すると透視を失敗し、第3回目では二重木箱を釘打ちして密閉した実験物で失敗、第4回目でも同じ二重木箱の密閉方法を用いたところ、失敗した。


実験2日目

【共同実験2日目の詳細】


この実験は前日と同様、千鶴子が普段治療を行っている清原猛雄の治療部屋で行われ、3回とも全部透視に成功した。

見取り図しかし、右の見取り図をご覧いただきたい。
いつも図のAと書いてある場所で千鶴子は透視を行っていたのだが、立会人は別室Bと書いてある場所から千鶴子の様子を見ていたのである。同じ部屋のすぐ後ろから見ていたわけではないのだ。(2部屋を仕切る襖は、実験によっては閉められることもあった)

また、この3回の実験では、全部紙を糊付けした封を用いていたという共通点がある。つまり上でも紹介したとおり、開けようと思えば開封可能なのである。

結局この実験も、透視は一応成功したものの疑問の残る実験結果であった。


実験3日目

【共同実験3日目の詳細】


この実験では第1回目と第2回目の両方とも、千鶴子は立会人とは別の部屋に一人で入って実験を行っていた。一応最初の実験は成功しているものの、開封可能な実験物だったことに加え、一人別室にこもって行った実験では意味のある結果だとはいえないだろう。

集合写真また今回の実験の開始前には、千鶴子が普段、清原猛雄の治療部屋で行っている人体透視を福来博士らの前で行った。千鶴子に透視してもらったのは、長崎茂平、長崎伊太郎夫人、夫人の息子(7歳)の計3人。
透視の際に千鶴子は6畳間に患者3人と対面して座り、襖(ふすま)を開け放った隣室には福来博士と今村博士が側面から千鶴子の透視を観察した。

ここで注目すべきは、千鶴子が透視を行った際に複数の患者と対面して座っていたこと、そして観察者には側面からの観察を許可していたことである。
思い出してほしい。これまで千鶴子は透視を行う際、正面はもちろん、側面からの観察も絶対に許可しなかった。しかし普段行っている透視では、観察者と同じようなものである待機中の患者は正面に座らせているのだ。また観察者には側面から見ることを許している。

これでは、体を切開しない限り真偽がハッキリしない、言い換えれば、その場でイカサマを行う必要がない人体透視では正面や側面からの観察は許可するが、福来博士らが依頼する透視のように、もしイカサマなら正面や側面からの観察が非常に困る場合は、イカサマが行えなくなるのでそういった角度からの観察を拒否しているのではないか? という疑念が湧く。

本当に透視ができるのなら、普段は当たり前のように許可していることを、実験になると拒否する必要などないだろう。

【写真引用元】
『日本霊能者列伝』(宝島社) P.11より


実験4日目

【共同実験4日目の詳細】


この日の実験では第2回目に名前を一字間違えたのみで、あとは全て正解した。
ただし4回とも全て千鶴子は別室に一人で入り、襖を閉じた状態で実験を行った。開封可能な実験物であったことを考えれば、ほとんど意味のない実験である。


実験5日目

【共同実験5日目の詳細】


この実験でも、千鶴子は1人で別室に入り、襖を閉じた状態で実験を行った。また第4回目の実験では、当初、財布を入れた包み紙を誰かの懐中に入れて透視を行ってもらおうとしたが、千鶴子がこの方法を嫌がったため、結局従来どおり1人別室での透視を行うことになった。


共同実験後の両博士

共同実験から10日後の明治43年4月25日になると、福来博士は東京帝国大学で開催された心理学会の第91回例会において、御船千鶴子に対して行った実験の報告をした。

例会には80人ほどが集まり、出席者の中には福来博士の恩師である元良勇次郎教授をはじめ、著名な学者も多数参加していた。

この例会では活発に議論がなされ、いくつかの仮説が提案されたが、博士はそれらを検証するため、例会後に千鶴子に依頼して通信実験を行っている。

また今村博士のほうも通信実験を行い、その後の明治43年6月27日から7月15日までの期間には、『大阪朝日新聞』の第一面に「透視に就いて」と題した連載寄稿文を発表している。

結果としてこの寄稿文は反響を呼び、「千里眼」「透視」といった言葉を世間に流布させるキッカケとなった。なお今村博士は千鶴子の実験について、彼女が立会人に対し背を向けて透視を行うことや、1人別室に入って襖を閉めること、実験物を手に持つことなどについて「甚だしく遺憾」であると述べてはいるが、連載全体を通しての千鶴子の評価としては肯定的であった。


京都での実験

今村博士の連載が終了してから約1ヶ月半後の明治43年8月29日・30日の両日に、大阪商工教育会の主催による透視に関する講演会が大阪市内の教育会館で開催された。講演を行ったのは福来友吉博士で、御船千鶴子も来賓として招かれた。


そして講演終了後の9月2日から5日までの期間には、福来博士と千鶴子一行が投宿していた京都市麩屋町の「俵屋旅館」にて、今村新吉博士も参加して再度の共同実験が行われた。


実験1日目〜3日目

【京都での実験1日目〜3日目の詳細】

実験4日目

最終日は千鶴子の前で鉛管のハンダ付けをし、その後に透視実験を行ったが、彼女がどうしても精神統一ができないと言うので実験は中止になってしまった。

この4日間を振り返ってみると、千鶴子はすべての実験で1人別室に入り、襖を閉じて実験を行っていた。内容も、開封可能である実験物の場合は相変わらず成功率が高かったが、鉛管にハンダ付けした実験物のように、道具がなければその場での開封が不可能な場合は失敗した。

しかし当時の世論は千鶴子をヒロインとして扱った。この京都での実験の前に大阪入りした際には、宿泊先の旅館に800通を超える手紙が千鶴子宛に届いたという。
また京都では彼女のために専用の「特別列車」が出され、破格の扱いを受けた。

後に彼女はこのときの気持ちとして、「にわかに女王様にでもなった気がします」と語っている。


東京での公開実験

京都での実験から10日ほど経った明治43年9月14日、今度は東京で公開実験が開催された。

実験に立ち会ったのは、福来、今村の両博士に加え、千鶴子の父・御船秀益、義兄・清原猛雄、熊本済々黌中学の校長・井芹経平、さらに元東京帝国大学総長の山川健次郎ら計14名。

この実験では当時を代表する錚々たる学者が参加し、さらに各新聞社の記者も参加したのでかなり話題となった。

しかしこれだけ多くの学者が参加した実験となると、いかにも学者たちが千鶴子側を呼びつけて高慢な態度で実験を行ったように誤解されることがあるが、実際はまったくそんなことはない。

千鶴子たち一行が上京した第一の目的は公開実験に参加するためではなく、地元の旧熊本藩主・細川護立の妻・弘子夫人が結婚後4年経っても子どもができないので、千鶴子に人体透視を依頼したことを受けてのものだった。また、この上京は東京見物も兼ねていた。

ちなみにこの実験を発案したのは福来博士だったものの、主催したのは御船千鶴子自身である。彼女にしてみれば、今回の実験を成功させることにより、「透視」を社会的に認めさせたかったのだろう。


実験1日目

実験は、東京の麹町中六番町にあった大橋新太郎氏の自宅で行われた。立会人は上でも紹介した14名。

千鶴子に透視してもらう実験物は、紙片を鉛管に収めハンダ付けしたもので、山川博士が20個用意した。そしてこの鉛管の中から1個を任意に選び、重さを計量。

千鶴子に鉛管を渡すと、彼女は一人で二階に上がり、実験をするために用意された部屋に屏風を立て、透視を開始した。監視役には山川博士と大沢博士が選ばれ、二階の別室で様子をうかがった。

しばらくすると千鶴子は屏風の中から姿を現し、鉛管の中の紙片に書かれているのは「盗丸射」の3文字だと答えた。その場でノコギリを使って中身を確かめると、たしかに「盗丸射」と書かれた紙が入っていた。

しかし、この3文字を見た山川博士は疑問の声を挙げる。自分が用意した20個の実験物の中には、「盗丸射」と書かれた紙は入っていないというのだ。別紙にあらかじめ書いておいた答えを見ても、確かに問題の3文字は含まれていなかった。

では一体、千鶴子が透視した文字は何だったのか? 実は千鶴子が透視したのは、前日に福来博士が「練習用」として渡していた鉛管の中身だったのである。

千鶴子はこの練習用の鉛管を、実験の当日に「お守り」として持参し、透視を行った際にも懐中に忍ばせていたという。しかし、この日に渡された鉛管はどうしても透視できなかったので、かわりに練習用の鉛管を透視して提出したというのだ。

この一連の騒動については、千里眼事件(平凡社)の著者である長山靖生氏が、その著書の中で次のように書いている。

「『誰が』『どのようにして』『どの時点で』すり替えをおこなったかは、もちろん実験の再開のためには明らかにすべき事柄である。しかしそうした個別の事象よりも、実験に先立って持ち物の検査もなされず、被験者の手元を主催者側も立ち会った者たちも見ることができないという事態のほうが、はるかに大きな問題だった。それはこの実験の管理の杜撰さ、ひいては信憑性の低さが(それが悪意や作為によるものではないにせよ)露呈されるものだった。しかしこれらの問題点は、その後の実験でも、容易には改められなかった」


長山氏が指摘しているように、この第一回実験の最大の問題点は、事前に持ち物検査すらされず、透視の際には別室で屏風を立てて姿を隠すような、杜撰で信憑性の低い実験スタイルがまかり通っていたという点だろう。

またこの実験に際し、「主催者側」である福来博士にも問題があったとして、長山氏は次のようにも指摘している。

「博士自身は、前日に自分が製作した鉛管三個を渡していたことを、もちろん覚えていたはずだ。だが実験結果に疑義が生じているその現場では、博士はその事実を誰にも知らせていない。これもまた公正さを欠く態度と見られる可能性があった」
「(中略)私がこだわりを覚えるのは、実験物がすり替わっていると判明した際、山川博士が自分が実験資料を作る際に福来博士から借りたものが混じったのかもしれないと語り、諸博士があれこれと原因を類推して語り合い、ひとつの資料を開封してみたりしている間、福来博士は自分が千鶴子に昨日渡した透覚物を回収していなかったことを、一言も語っていない点だ。福来はこの時点で、それがどうしてすり替わっていたか、分かっていたはずだ」


次に千鶴子の問題点。(長山氏は著書の中で、以下の点を「管理体制の問題点」として挙げているが、実際は千鶴子の問題点でもあるといえる)

「彼女は、実験室での精神統一の後、「盗丸射」という透視結果を告げてから程なく、透視できなかった鉛管(実験用に渡された品)を、「こちらは分かりませんでした」とオープンに返却するのではなく、黙って、居合わせた誰もが気づかないうちに準備してあった他の実験資料のなかに戻している」


こういった問題点は、この後に実験を続ける上で重要なことだったはずだが、結局、当時は指摘されることはなく、また改善されることもなく、この事件はうやむやのうちに終わってしまった。(一応、初日の実験はこの後に2度行われたが、両方とも失敗に終わっている)


実験2日目

2日目の実験は、当初の予定どおり千鶴子ら一行が宿泊していた淡路町の関根屋旅館で行われた。立会人は『東京朝日新聞』、『東京日日新聞』、『日本新聞』、『心理時報』の各記者。

実験道具実験では名刺大の白紙に3文字を書き、それを任意に選ぶと、裏向きのまま錫製の壷に入れて木箱に収めた。箱のフタには十文字に紙の封をし、4人の記者が封印を押した。(写真は、千鶴子の実験でよく使われた茶筒と木箱)

実験の監視役にはクジで『心理時報』の記者が選ばれ、彼が木箱を持って三階に用意された実験部屋に行き、千鶴子の様子を襖を開けた隣の部屋から観察した。(千鶴子は後ろを向いていた。手元は全く見えない)

透視のほうは9分53秒後におわり、木箱に入っているのは「心神通」だと千鶴子は答えた。中を確かめると、紙片には彼女が答えと同じ3文字が書かれていた。

やはり、ハンダ付けをせず後ろ向きで開封可能な状態の実験物で成功するのは、いつものことである。

【写真引用元】
『心霊と神秘世界』 福来友吉【著】(心交社)


実験3日目

最終日の実験は、1日休息を挟んで翌9月17日に行われた。
立会人は、理学博士の山川健次郎、千鶴子の父・御船秀益、義兄の清原猛雄、熊本済々黌中学の校長・井芹経平たちを含む計20名ほどの面々である。

実験方法は、前回の鉛管で失敗しているために、千鶴子がこれまでの実験で最も慣れている錫製の壷に紙片を入れて行われた。

この壷は木箱に収められ、箱の下縁にある穴へ紐を通して箱全体を蓋の上で結わえつけ、一度解くと二度と結べないほど結び目の余り紐を切り落とす。 そして、出席者たちがそれぞれの認印を捺した和紙で紙縒(こより)を作り、それを紐の結び目に結わえ、その両端を切って墨を塗り、さらにその上に大きな紙を覆って貼り付け、出席者が思い思いに割印を捺した。

実験物は山川博士が千鶴子のいる3階まで運び、井上哲次郎博士が代表となって、襖を開けた別室から後ろ向きで透視を行う千鶴子の様子を観察。

千鶴子は10分21秒後に「道徳天」の3文字を答えた。その後に出席者の前で中身の確認がされたところ、中に入っていた紙片には「道徳天」の3文字が書かれていた。結果は成功である。

しかし、この実験も開封可能だったことが指摘されている。以下は、実際この日の実験にも参加した東京高等師範学校の後藤牧太教授の言葉である。

「紙縒(こより)を解き、紐を解いて箱の蓋を開け、壷の蓋を開けて、字を書いた紙をつまみ出して見、又元の通りにしておくことは誰にでもできるのである。現に田中館博士が透視の済んだあとで、こよりを爪先でわけもなく解いた。解いたこよりを元の通りに結ぶことは、爪の先で出来る。針でもあれば容易くできる。千鶴子が封を解いたということは断言することはできないが、開くことのできる封では、封をしないも同様で封は何の役にも立たないから、実験法が不完全だと言わなければならない。千鶴子の側には硯(すずり)箱が備えてあるから、千鶴子がこよりの結び目に墨を塗ろうと思えば、これもできることである」
                         『東洋学芸雑誌』第二十巻


なお、これらの作業を行う際は、ヒジから先だけを動かすようにすれば後ろから見られてもバレることはない。また千鶴子のように着物を着ていれば、腕の動きはかなり隠される。

結局、後藤教授が指摘しているように、開封可能なのでは封をしないも同様であり、実験法がずさんであったという点は問題点として指摘しておきたい。


熊本での最後の実験

東京での公開実験から2ヶ月後の明治43年11月17日になると、今度は熊本で実験が行われた。
実験を行ったのは福来友吉博士で、初日の実験場所は熊本の旅館「研屋」、立会人は福来博士と清原猛雄の2名のみ。以下はその詳細である。


実験1日目

【熊本での実験1日目の詳細】

 

実験2日目(午前)

2日目の実験は、熊本済々黌中学の井芹校長の自宅にある書斎で行われた。
立会人は福来博士と井芹校長夫人の2名のみ。

実験物は、2個のサイコロを黒塗りの巻きタバコの箱に入れ、紙にて帯封。紙の接ぎめには封印を捺した。そしてこの箱を福来博士が数回振ってから千鶴子に渡し、中にある2つのサイコロの目を透視するように依頼した。

【熊本での実験2日目:午前の詳細】


結果は4回中3回が正解と好成績である。
しかし、この実験も従来どおり千鶴子は後ろを向いて手元を隠していたため、福来博士は不満を持っていた。そこで続く午後の実験では、正面を向いて透視を行ってくれるように千鶴子を説得。

彼女は、顔を見られては精神統一ができないというので、部屋と部屋との間の鴨居から毛布を垂らして上半身を隠し、透視の際は体を斜めに向けてはいたものの、手元が見えるような状態で実験を行うことを初めて許可した。


実験2日目(午後)

【熊本での実験2日目:午後の詳細】


手元を見せての初の実験では、5回中3回が成功した。
しかしこの実験に関して、明治大学教授で、日本超心理学会の初代会長でもあった小熊虎之助は、海外の事件や日本で起きた千里眼事件なども研究した良書
『心霊現象の科学』(芙蓉書房)の中で次のように指摘している。

「千鶴子の透視実験のうち、学術的な実験はただ第六回の実験だけにすぎなく、しかも透視の適中したのはただ五回のうち三回にすぎない。このような少数の実験とその適中とで、確実にこの透視という殆ど前例のないような新能力の存在することを断言し得るのだろうか。そのような断定はあまりに蒼急すぎることは明炳である。
(中略)元来確率は、実験の回数が多いほどその確かさの度を増すものであるから、透視を少なくとも二三十回位して、それでもその結果が三十六分の一よりも多いというなら、かなり透視能力も確かになってくる。ただ五回のうち三回当たったというだけでは、偶然の適中、詳しくいうと、透視能力以外の普通の原因からの適中ではないという、十分な証拠にはならないのである」


ここで小熊が指摘している「透視能力以外の普通の原因」とは、たとえば実際に出たサイコロの目が前回と全く同じだったり、片方の数字が続けて出ていることから、実験物のタバコの箱やサイコロに問題があったのではないか、ということである。

つまり巻きタバコを入れる箱というのは小型なので、サイコロを入れて振ってもうまく回らず、同じ数が続けて出てしまう可能性があることや、サイコロ自体の作りに偏りがあり、やはり同じ数が続けて出てしまった可能性があるということだ。

本来なら、これらの可能性を排除するためにも、実験物はサイコロが良く回る大きな箱を用いたり、実験が一回終わるごとに答えを教えない、サイコロは複数用いる、実験回数を増やすなどの措置を行うべきだったと思う。しかし実際は残念ながら、このようなことは行われなかった。


注目すべきもの

ここではいくつかの例外的な実験を紹介しようと思う。以下は、私が例外的だと考えている3つの実験結果である。

(1) 明治43年(1910年)9月5日の夕方に行われた実験。立会人は福来友吉博士と旅館の女中。透視に要した時間は約4分。透視した文字は「阜營公」の3文字。

(2) 上と同じ明治43年(1910年)9月5日の夕方に行われた実験。立会人は福来友吉博士と旅館の女中。透視に要した時間は6分23秒。この時は鉛管を茶壷に入れて封をしたものを透視した。透視した文字は「中囘人」の3文字。

(3) 明治43年(1910年)11月19日に行われた実験。立会人は福来博士と清原猛雄。透視に要した時間は3分16秒。透視した文字は「無受次」の3文字。


これら3つは全部、鉛管の中に紙片を入れて行われたものだ。

実験道具しかしこの3つにはいくつか共通する疑問点がある。たとえば、この3つは全部、最初に失敗して暫く時間が経ってから行われた再実験であることや、3回とも千鶴子側から福来博士に再実験を申し出ている点などだ。

このあたりをよく考えると、もし福来博士が鉛管のある部屋から離れているときに鉛管を取り出し、その後中身を見てハンダ付けをした鉛管を元に戻せば、中に何が書いてあるか事前に知ることが可能である。

福来博士によれば、この作業(鉛管の中身を確認して再びハンダ付け)を10分程度で行うのは不可能らしい。しかし、実際は十分に時間はあった。(最後の実験は二日分も時間あり)

またこれら3つは全部、襖を閉じた別室で千鶴子が1人で行ったものであり、手元や実験物はもちろん、後ろ姿さえ実験中は見ることはできなかった。こういった完全に密室での実験だったことも疑惑を抱かせる原因となる。

とはいえ、これまで失敗の多かった鉛管を用いた実験において、少数ながらも成功していた事例があったことは確かな事実である。
いくつかの疑問点や、実験の際は中の様子がまったくわからない別室で行われたという致命的な欠点はあるので、この成功をもって透視能力が本物だとは考えにくいものの、期待を抱かせる注目すべき実験だとは言えるだろう。

【写真引用元】
別冊宝島編集部編 『日本霊能者列伝』(宝島社)


千鶴子の死

最後は千鶴子が自殺した件について書いておきたい。
御船千鶴子は明治44年1月18日に、染料用の重クロム酸カリを服毒し、翌19日の未明に亡くなった。24歳という若さだった。

この死に関し、千鶴子を扱ったテレビや雑誌、本などの多くでは、「彼女の能力は本物だったが、学者やマスコミによってその能力を否定され、死に追い込まれてしまった悲劇のヒロイン」として祀り上げられることが多い。

しかし実際は違う。千鶴子が亡くなった当時、彼女の能力を表立って否定する学者というのは少数しかいなかった。多くの学者は福来博士の実験がずさんなために懐疑的ではあったものの、能力を検証するためには今後も継続して実験を行う必要があると考え、中立的な立場をとっていたのだ。

さらに千鶴子の能力を肯定する学者というのも確かに存在した。当時、東京帝国大学の助教授で、千鶴子のことを最も多く実験した福来博士は彼女の能力を全面的に信じていたし、大阪府立高等医学校長の佐藤愛彦博士や、新潟医学専門学校の藤田敏彦教授なども、千鶴子に対して肯定的だった。決して、多くの学者に一方的に否定されたわけではないのである。

またマスコミの方も、死の前に千鶴子を批判的に扱ったものはわずかしかなく、彼女のことを大々的に批判した『夕刊報知』の記事が世に出たのは、千鶴子が服毒した翌日(1月19日)の夕方である。つまり、批判記事が自殺の直接の原因であるとは考えにくい。

一方、千鶴子の後に透視能力者として注目されていた四国の長尾郁子に対する新聞の批判記事を見て、千鶴子は死を選んだとも言われることがある。しかし、これもどうだろう。

福来友吉の著書『心霊と神秘世界』(心交社)によれば、千鶴子は自分より注目を集め始めていた長尾郁子のことをライバル視しており、少なからず嫉妬心を持っていた節があるのだ。福来博士は千鶴子が最後の実験で鉛管の透視を成功させたあとの様子について次のように記している。

「彼女は勝ち誇ったような悦びを満面に張らしていた。長尾夫人は鉛管封入の実験物については透視出来ぬということが噂に上がっていたから、千鶴子嬢はそれを透視し得たことについて、勝者の得意を抱いていたのであろう」


これを見ると、長尾郁子がどんなに批判されようが、千鶴子自身が実験を成功させさえすれば、相対的に再び自分の透視能力が注目を集めると考えていた可能性がある。ならば郁子に対する批判記事はピンチではなく、むしろチャンスと捉えていたのかもしれない。

しかしそうなると、千鶴子が自殺した理由として最も可能性が高いと思われるのは一体何なのだろうか?

明治から大正にかけての千里眼事件について研究している一柳広孝氏の著書『「こっくりさん」と「千里眼」―日本近代と心霊学』(講談社)によれば、千鶴子の父・秀益が彼女の能力を利用して一儲けしようと考え、なにかにつけて自宅で能力を使わせようとしたため、利欲に薄い千鶴子はそのことで悩んでいた、と地元の熊本では見られていたという。現にこのことに関して、福来博士と今村博士は御船家に家庭内の問題があったことをほのめかしている。

また治療院を営み、千鶴子の透視能力者としての知名度で莫大な利益を上げていた父・秀益と義兄の清原猛雄との間で、千鶴子を巡る争奪戦があったとも言われている。(※注1)

【※注1】 千鶴子の死後、御船家に遺された遺産は当時の金で20万円。現在の価値に換算すれば数億円にもなる莫大な金が遺されていた。

結局、彼女は金や利権が絡むことに嫌気がさしたのではないだろうか。
(とはいえ千鶴子自身、とくに資格もなしに治療行為を行い金銭を得ていたことを考えると、こういったトラブルに巻き込まれるのはある意味必然であったのかもしれないが)、それでも24歳という若さでの死は早すぎた。悔やまれる最期である。

(記事公開日:2006年6月28日)

【参考資料】

  • 福来友吉 『心霊と神秘世界』 (心交社)
  • 寺沢龍 『透視も念写も事実である』 (草思社)
  • 長山靖生 『千里眼事件』 (平凡社)
  • 小熊虎之助『心霊現象の科学』 (芙蓉書房)
  • 藤原咲平・藤教篤 『千里眼実験録』
  • 一柳廣孝 『「こっくりさん」と「千里眼」日本近代と心霊学』 (講談社)
  • ものの見方考え方研究会 『超能力・トリック・手品』 (季節社)
  • 別冊宝島編集部編 『日本霊能者列伝』 (宝島社)