
1886年、日本で始めて科学的に調査されることになる超能力者が熊本に生まれた。彼女の名前は御船千鶴子。
千鶴子は、義兄の清原猛雄に催眠術をかけられ、誘導されたことをキッカケに超能力者として目覚めた。22歳の頃には本格的に透視を行うようになり、熊本では姉夫婦(清原夫妻)が開業していた治療院で、透視能力を使った治療を行うようになっていた。
彼女が科学的に調査されるようになるのは、それから約一年後の明治42年、23歳の頃である。この頃には、京都帝国大学(現・京都大学)元総長の木下広次による実験も行われ、新聞報道もされた。
そして後に数々の実験を共にすることになる、東京帝国大学(現・東京大学)の助教授・福来友吉とは、翌年の明治43年になって初めて出会った。
千鶴子と福来は、最初は通信実験から行い、後には封筒、壷、鉛筒の中身の透視などを行い、多くを成功させた。
しかし明治43年9月、東京で多くの学者立会いのもとで行われた公開実験において、千鶴子は実験物のスリ替えを疑われてしまい、このことをキッカケに、マスコミや学者は彼女に否定的な論調を強めていくことになった。
そして後には、千鶴子と同じく驚異の透視能力を発揮し注目を集めていた、超能力者の長尾郁子に対しての非難記事を見た千鶴子は、明治44年1月18日、失望と怒りの中、自ら染料用の重クロム酸カリを服毒し自殺してしまう。(死亡は翌日未明)
享年25歳。千鶴子を死に追いやったのは、彼女の超能力を頑なに認めず、否定しようとした頑固な学者たちだったと言えるだろう。
【写真引用元】
『千里眼事件』 長山靖生【著】(平凡社新書) P.33より
御船千鶴子といえば、近年では小説『リング』に登場する貞子の母親・山村志津子のモデルとなったことでも注目を集めた。ご存知の方もいるだろう。
千鶴子は日本の超能力者の中では比較的知名度があり、海外でも、世界の超能力者や心霊現象を紹介した『The Encyclopedia of Parapsychology and Psychical Research』 A. S. Berger【著】 / J. Berger【著】(Marlowe & Co)という有名な事典においても、日本を代表する超能力者として紹介されている。
しかしそんな彼女が日本で紹介される際は、「超能力は本物」であったが、当時の頭の固い学者連中やマスコミによってその能力を否定され、自殺に追い込まれたてしまった悲劇のヒロイン、というような扱いで紹介されることが多い。
だが千鶴子の超能力は、「本物」と呼べるほど確証のあるものだったのだろうか? また当時の学者は皆、彼女の超能力を頭ごなしに否定したのだろうか? また自殺の原因についてはどうだろう?
興味の尽きないところだが、以下では、これらのことについて詳しく真相を探ってみることにしたい。
御船千鶴子に対して行われた実験はいくつかあるので、まずは以下でその詳細をご紹介しよう。
この実験は、福来博士が千鶴子に対して行った最初の実験である。時期は明治43年2月のことで、福来博士は以前から熊本済々黌中学の校長・井芹経平から千鶴子の実験を依頼されていたが、なかなか熊本行きの都合がつかないでいた。
そこで、まずは福来博士が熊本入りする前に、予備実験というかたちで実験を行ったのである。
実験は福来博士が用意した名刺の中から任意に19枚を抜き出し、各名刺の一部、あるいは全部に錫(すず)の箔(金属をたたいて薄くのばしたもの)を貼り付け、さらにそれぞれに不透明の白いカードを重ねて袋に収め、のりづけして封をした。封筒の封じ目には大きな紙をのり付けし、その境目には自分の印鑑をいくつも押印した。
そして、この実験用の封筒19通(それぞれに番号が振られていた)は、井芹校長のもとへ郵便小包で送り、千鶴子に封筒の中身を透視してもらうように依頼。
井芹校長からは2月の下旬に、千鶴子が透視完了した実験物が返送されたが、中身を確認してみると19通あった実験物のうち、実際に返送されてきたのは7通だけしかなかった。
同封されていた説明書きによると、三つは精神統一中に居眠りして火鉢に落とし、残りの九つは疲労のため透視を中止したと書かれてあった。
以下は、返送されてきた実験物の中身と、千鶴子の透視結果である。(長さの単位は分かりやすいようにセンチとミリに換算した)
番号 |
実験物の内容 |
千鶴子が記した透視結果 |
|---|---|---|
(4) |
名刺は入れず、白色のカード二枚のみを封入。そのうち一枚には、長さ4センチ、幅8ミリくらいの錫箔を貼付。 | 「文字見ぬ。白紙一枚別の一枚には長さ3センチ、幅6ミリ位の錫箔を貼付しあり」 |
(5) |
名刺の表に「酒井忠道」と印刷。 文字部分の裏表には錫箔を貼付し、さらに白色カード二枚で名刺を挟んで封入。 |
酒井忠道 白紙上下二枚、中の紙に右の文字あり文字には表裏にうすくろき紙のはりあるのを見た。 |
(6) |
名刺の表には、 深井虎藏 と印刷。 |
深【水】虎藏 白色一枚水虎の二字に貼紙がある。 |
(7) |
名刺の表には、 東京帝國大學文化大學々生 と印刷。 |
東京帝國大學文化大學々生 澄田oシ 白紙一枚oシの二字を紙にてかぶせてある。 |
(8) |
名刺の表には、 大塚俊一 と印刷。 |
上下白紙二枚、表裏にうすくろき紙にて文字の全体を隠してある。 |
(9) |
名刺の表には、 と印刷。 |
【忝】賀新年 白紙上下二枚、右の文字にはかくし紙なし。 |
(10) |
名刺の表には、 恭賀新正 と印刷。 |
【忝】賀新正 白紙一枚、右の文字の外に二字あるが如くに見ゆれども、うすぐろく見えて分明にわからず。 |
【※注】 千鶴子の8番と9番の答えについては、誤字のため表示不能なので、福来博士の著書『心霊と神秘世界』(心交社)から該当文字を引用した。
また表中の【※】で示した箇所は、実際の透視物と答えが違った箇所。
表を見比べてもらえばわかるとおり、千鶴子は以下の7箇所を間違え、残りは正解した。
- 6番で「井」を「水」と誤る。
- 8番で「塚」を誤る。
- 9番で「穰」を誤り、「恭」も「忝」と誤る。
- 10番では「恭」を「忝」と誤り、「芳藏」と、住所の部分を見落とす。
この透視結果を得た福来博士は、後の著書『透視と念写』の中で「余は甚だしく驚愕したり」と書き、『心霊と神秘世界』の中では、「透視能力あることを信じた」と書いている。
だが、この結果は透視能力があることを示すには十分といえるだろうか? 私は大きな疑問があると思っている。
上でも書いたとおり、19通あった実験物のうち、千鶴子が返送してきたのはたった7通で、残り3通は居眠りして火鉢に落とし、9通は疲労のため中止してほしいと、福来博士に申し入れている。
もともと千鶴子の住んでいる家で行われ、しかも監視人などいない状況の通信実験という時点で、「実験」と呼ぶこと自体無理があると思うが、さらに返送してきたのが半分以下の7通では話にならないだろう。
また実験物は全部のりづけなので、剥がそうと思えば剥がせるし、もし失敗した場合でも返送しなければ失敗がバレることはない。(実際19通のうち12通は返送していない)
結局このような疑惑を払拭できない底抜けのトリック防止策では、「実験」としての意味はほとんどないといえるだろう。
京都帝国大学(現・京都大学)の今村新吉博士は、ちょうど福来博士の通信実験とほぼ同じ時期の明治43年2月19日に、千鶴子の透視実験を行うために熊本を訪れた。
実験が行われた場所は千鶴子の義兄・清原猛雄の自宅兼治療院で、実施日は2月20日と21日の二日間。実験は名刺ほどの大きさの白い厚紙に、それぞれ文字や図を書き、そのカードを紙に包んで封筒に糊付けして封入。同じものは12個用意された。
以下は、実験物の詳細と千鶴子の透視結果である。(『透視も念写も事実である』寺沢龍 (草思社)を参考)
封筒名 |
実験物の内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一号 |
カードに書かれていたのは「狐」という字。 白色の紙で三重に包んで封入。 |
「狐」という字がもうろうと見えた。 |
第二号 |
以下の三枚の紙を白色の紙で包んで封入したが、文字や絵は何も書かなかった。 (1) 白紙 |
(1) 答えなし (2) 赤色が見える (3) 黒色も見える |
第三号 |
カードには「助」という字を書く。 タバコ包装紙の錫箔で一重に包み、さらに薄洋紙で一重に包む。 |
「助」という字が見え、その表裏に銀紙のごときものあり。 |
第四号 |
カードには「馬」という字を書く。 白色の紙をカードの表に二枚、裏に一枚を置く。 |
「地」の字がかすんで見える。 |
第五号 |
カードには「Campus」という字を書く。 赤色の紙の着色面を内側にして一重に包み、さらに白色の紙で一重に覆う。 |
千鶴子は封筒の表に「Campus」にきわめて近い字を書いた。(まったく同じではない) |
第六号 |
カードには「太陽」という字を書く。 濃紺の紙の着色面を内側にしてカードの表面に置き、さらに白色の紙を表に一枚、裏に二枚を置く。 |
「太陽」の字が見え、字の上に紺紙一枚が見える。 |
第七号 |
カードに書かれていたのは「虎」という字。 青色の紙の着色面を内側にして一重に包み、さらに白色の紙で一重に覆う。 |
「虎」の字が見える。ねずみ色のもので包まれている。 |
第八号 |
カードの一隅を切り落とし、「海岸において左方に二人の子どもが立っている」様子を想像して、カードに念じ込める。 そして白色の紙で一重に包む。 |
白色三枚あり、文字は見えない。 (カードの隅が切り取られていることと、風景が何か見えなかったか今村博士が尋ねると、千鶴子は見えなかったと答えた) |
第九号 |
カードの隅を切り落とし、「善」の字をカードに念じこむ。 カードは白色の紙で一重につつむ。 |
文字は見えない。白紙三枚あり。 |
第十号 |
カードには「耳」という字を書く。 字面に白色の紙一枚を置く。 |
「耳」の字が見えた。 |
第十一号 |
カードには「△」と書く。 赤色の紙の着色面を外側にして一重に包む。 |
「神」の字が漠然と見えた。 |
第十二号 |
カードには「心」という字を書く。 字面に白色の紙二枚を重ね、裏面にも同じ紙を一枚置く。 |
「心」の字が見える。 |
この実験を含む、他のほぼ全ての実験も同じだったのだが、千鶴子は実験中に立会人に背を向けて透視を行うことを要求していた。
つまり実験では、千鶴子の背中しか見えず、手元を含む正面はまったく見えない状況で実験を行っていたのである。(この点に関しては、千鶴子のことを信じていた福来博士もマズイと思っており、何とか正面を向いて透視を行えるようにならないと、他者から非常に怪しいと思われてしまうことは自覚していた)
ちなみに東京高等師範学校の後藤牧太教授によれば、今回の実験を含む千鶴子の透視実験でよく使われたものと同じ、糊付けした紙に認印を押したものを自ら作り実験したところ、「唾で濡らして紙封を剥がすのに四十二秒、認印を合わせるのに一分半、肌にあてて乾かすのに四分、合計六分半を要する」などの結果を得たという。(実際は慣れればもっと時間を短縮できるだろう)
また、「福来博士のように紙封を十文字にすると約八分を要するが、いずれにしても、このような開封可能な封じ方では千鶴子の能力を検証し得ない」とも指摘している。
今回の実験も紙を糊付けして封をしただけなので、イカサマ防止策としては明らかに不十分である。(しかも正面を向いて正々堂々と透視をしたのならともかく、後ろを向き手元と実験物を隠して行った実験であることを忘れてはならない)
ちなみに今回の実験で興味深かったのは、第八号と第九号の透視だろうか。
両方とも実験物のカードにイメージを念じこむという方法を使い、これでもしイメージを(曖昧なこじつけではなく)完璧に透視できたなら透視能力は本物では?と思わせる実験だったが、結果はイメージを透視することができなかった。
続いて行われたのは、今村博士の実験から約一ヶ月半ほど経った明治43年4月10日に、井芹校長の仲立ちによって実現した、福来友吉博士と今村新吉博士の共同実験である。
この実験は4月10、11、12、13、15日の計5日間行われた。
以下は、それぞれの詳細である。(『心霊と神秘世界』福来友吉【著】(心交社)、『透視も念写も事実である』寺沢龍 (草思社)を参考)
場所は清原猛雄の自宅玄関の隣の八畳間、通称「治療部屋」で行われた。立会人は福来博士、今村博士、清原猛雄の計3人。
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
長さ9センチ、幅6センチの名刺大の白いカードの表面には台形、裏面には上辺が傾斜した台形の切り込みを入れた錫箔を貼り付けた。 さらにこのカードを同じカード二枚で挟み込み、全体を錫箔で覆い、その四辺を糊付けする。 千鶴子へは福来博士から包装状態についての説明があり、最初は実験物に触れずに、内部の錫箔の形を透視を行うように依頼した。 |
透視開始から10分17秒後、「前面に三角の形が見え、裏には丸いものが見える」と透視。 全く当たらなかったので、今度は福来博士が指示した方法は撤回して再透視を依頼したが、8分52秒後に千鶴子は同じものが見えたと答える。 |
第二回 |
清原猛雄が用意した名刺約50枚の中から任意の一枚を抜き出し、錫製のフタのついた小さな磁器茶壷の中に入れた。 さらにフタの上には紙を貼り渡して糊付けした。 名刺には「大島忠九郎」という字が印刷されていた。 |
「大島忠九郎」の字が見えた、と答える。 |
第三回 |
実験は、今村博士が担当。 白色のカードに「梅」という字を他人に書いてもらい、そのカードを濃紺のビロード布地で幾重にも巻いたあと、その両端を縫い合わせた。 そしてカード入りの布は、小さな木箱に入れ、さらにその箱を長さ10センチ、幅7センチ、高さ3センチの木製の外箱に入れて釘を打って密閉。さらに箱全体を洋紙で包んで密閉した。 千鶴子には事前に梱包状態を説明して透視を依頼。 |
透視開始から13分30秒後に、自信はないと言いながら、「天」の字が見えると答えた。 |
第四回 |
清原猛雄から借りた名刺50枚の中から任意に一枚を選んだあと、先の第三回実験において今村博士が用いた二重木箱の中に選んだ名刺を収め、ネジ止めした。 この実験では、治療部屋の襖を閉じた状態で千鶴子に透視を依頼。 |
開始から40分近く経っても透視できず、結局は精神統一ができないとのことで実験を中止した。 |
この第一日目の実験において成功したのは、第二回目の実験のみだった。
第一回目では手を触れないように依頼すると透視を失敗し、第三回目では二重木箱を釘打ちして密閉した実験物で失敗、第四回目でも同じ二重木箱の密閉方法を用いたところ、失敗した。
実験場所は、前日と同じ清原猛雄の治療部屋である。立会人は、福来、今村の両博士に、清原猛雄、井芹経平校長、千鶴子の父親を加えた、計5人。
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
福来博士が担当。 清原猛雄から借りた名刺35枚の中から、任意に二枚を井芹校長に抜き取ってもらう。 そのうち一枚を伏せたままにして三枚の半紙で幾重にも包み、青色の二重封筒に封入。 名刺には「岡松忠利」と書かれていた。 |
透視開始から約10後、 「岡松忠利」と答える。 |
第二回 |
第一回目の実験で選んだもう一枚の名刺を使用。 この名刺は伏せたまま、二重蓋の小さな錫製茶壷に入れ、この壷を桐の箱に収めて封をした。(釘ではなく紙で糊付け) 名刺には「木寺享重」と書かれていた。 |
透視開始から約15分〜20分後「木寺享重」と答える。 |
第三回 |
今村博士が担当。 清原猛雄から名刺を借りると、表を見ずに任意の一枚を選び、裏向きのまま鉄ビンの中に収めてフタをし、紙を貼って封じた。 名刺には「串山寛次」と書かれていた。 |
透視開始から約7分後、 「串山寛次」と答える。 |
この実験は前日と同様、千鶴子が普段治療を行っている清原猛雄の治療部屋で行われ、三回とも全部透視に成功した。
しかし、右の見取り図をご覧いただきたい。
いつも図のAと書いてある場所で千鶴子は透視を行っていたのだが、立会人は別室のBと書いてある場所から千鶴子の様子を見ていたのである。同じ部屋のすぐ後ろから見ていたわけではないのだ。(二部屋を仕切る襖は、実験によっては閉められることもあった)
また、この三回の実験では、全部紙を糊付けした封を用いていたという共通点がある。つまり上でも紹介したとおり、開けようと思えば開封可能なのである。
結局この実験も、透視は一応成功したものの疑問の残る実験結果であった。
今回の実験場所は、熊本市鷹匠町の熊本市会議員・長崎伊太郎の別邸「夕佳亭」で行われた。立会人は、福来博士、今村博士、井芹校長と、伊太郎の弟・長崎茂平の計4人。
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
福来博士が担当。 井芹校長が持参した数百枚の名刺の中から、裏向きに一枚を抜き取り、この名刺は伏せたまま二枚重ねの紙で包む。 そして、井芹校長の持ち物である蛇紋石製の「巻タバコ入れ」にこの包みを収め、フタを閉じて封をした。 名刺には「松山嘉一郎」と書かれていた。 |
茶室に入って戸口を閉めると、 7分47秒後に部屋から出てきて、 「松山嘉一郎」という字が見えた、と答えた。 |
第二回 |
今村博士が担当。 実験二日目に使用した二重木箱の中に、旅館の番頭に頼んで客から集めてもらった名刺数十枚の中から、番頭に裏向きのまま任意の一枚を選んでもらい箱の中に収めた。 フタは前回と同様に釘を打って封をし、さらに全体を紙で包んで封閉めた。 ただし、この二重木箱を釘で封をし紙で包む方法は、千鶴子が嫌がって拒否していたため、外からはわからないようにさらにビスケット缶の中に収めた。 |
前回同様、一人で茶室の中に 入って戸口閉めると、それから 約14分後に部屋から出てきた。 そして、自分が嫌っていた二重木箱が中にあることを告げると激怒した。 実験はそのまま中止。結局、名刺の透視はできなかった。 |
この実験では第一回目と第二回目の両方とも、千鶴子は立会人とは別の部屋に一人で入って実験を行っていた。一応最初の実験は成功しているが、開封可能な実験物だったことに加え、一人別室にこもって行った実験では、とてもではないが意味のある結果だとはいえないだろう。
また今回の実験の開始前には、千鶴子が普段、清原猛雄の治療部屋で行っている人体透視を福来博士らの前で行った。千鶴子に透視してもらったのは、長崎茂平、長崎伊太郎夫人、夫人の息子(7歳)の計3人。
透視の際に千鶴子は六畳間に患者3人と対面して座り、襖(ふすま)を開け放った隣室には福来博士と今村博士が側面から千鶴子の透視を観察した。
ここで注目すべきは、千鶴子が透視を行った際に複数の患者と対面して座っていたこと、そして観察者には側面からの観察を許可していたことである。
思い出してほしい。これまで千鶴子は透視を行う際、正面はもちろん、側面からの観察も絶対に許可しなかった。しかし普段行っている透視では、観察者と同じようなものである待機中の患者は正面に座らせているのだ。また観察者には側面から見ることを許している。
これでは、体を切開しない限り真偽がハッキリしない、言い換えれば、その場で物理的なイカサマを行う必要がない人体透視では正面や側面からの観察は許可するが、福来博士らが依頼した透視のように、もしイカサマなら正面や側面からの観察が非常に困る場合は、イカサマが行えなくなるのでそういった角度からの観察を拒否しているのではないか? という疑念が湧く。
本当に透視ができるのなら、普段は当たり前のように許可していることを、実験になると拒否する必要などないだろう。
【写真引用元】
『日本霊能者列伝』(宝島社) P.11より
会場は再び清原猛雄の自宅に戻る。立会人は、福来博士、今村博士、清原猛雄の計3人。
この日は、福来、今村の両博士が共同で実験を行った。
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
清原猛雄から名刺50枚を借りると、その中から名刺一枚を表を見ないように選び、三つ折りにして二重蓋がついている錫製の茶壷に入れた。 そして、この茶壷は木箱に納め、フタには十文字に紙の封をした。 名刺に書かれていたのは、「吉田隆藏」という名前。 |
治療部屋に入ると襖を閉じた。 「吉田隆藏」を7分50秒後に答える。 |
第二回 |
実験物は一回目と同じ方法で選び、梱包した。 名刺には「中村元彦」と書かれていた。 |
治療部屋に入ると襖を閉じた。 11分48秒後に「中村元介」と答える。 |
第三回 |
実験物は一回目と同じ方法で選び、梱包した。 名刺には「富田明憲」と書かれていた。 |
治療部屋に入ると襖を閉じた。 15分20秒後に「富田明憲」と答える。 |
第四回 |
実験物は一回目と同じ方法で選び、梱包した。 名刺には「古賀信義」と書かれていた。 |
治療部屋に入ると襖を閉じた。 11分23秒後に「古賀信義」と答える。 |
この日の実験では第二回目に名前を一字間違えたのみで、あとは全て正解した。
ただし四回とも全て千鶴子は別室に一人で入り、襖を閉じた状態で実験を行った。開封可能な実験物であったことを考えれば、ほとんど意味のない実験である。
場所は三日目の会場でもあった夕佳亭。立会人は、福来、今村の両博士に、井芹校長、清原猛雄、長崎茂平の計5人。
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
縦14センチ、横10センチの和紙に墨で字を書いたもの50枚を事前に用意し、この中から一枚を選ぶと、「結び文」の形に紙を結んだ。 そしてこの結び文は、錫製の茶壷の中に入れて二重蓋をし、さらに木箱に納めてフタの上に十文字の形に紙で封をした。 紙には「遙遺求閑寥」と書かれていた。 |
一人で茶室に入ると襖を閉じた。 14分36秒後に「遙遺求閑寥」と答える。 |
第二回 |
一回目と同じ方法で実験物を選び、梱包した。 紙には「滿操遂」と書かれていた。 |
一人で茶室に入ると襖を閉じた。 8分50秒後に「滿操遂」と答える。 |
第三回 |
一回目と同じ方法で実験物を選び、梱包の際は綿で包んで木箱に納め、箱のフタに紙で封をした。 紙には、「解尋誰索論」と書かれていた。 |
一人で茶室に入り、襖を閉じた。 15分24秒後に「解尋誰索論」と答える。 |
第四回 |
福来博士の財布を一旦カラにしたあと、長崎茂平に貨幣を入れてもらい、その財布を紙に包んで封をした。 財布の中身は、十銭銀貨が三つと二銭銅貨一つ、一銭銅貨が一つの計三十三銭が入っていた。 |
一人で茶室に入ると襖を閉じた。 15分19秒後に、財布の中には十銭銀貨が三つと二銭銅貨一つ、一銭銅貨が一つの計三十三銭が入っていると答える。 |
この実験でも、千鶴子は一人で別室に入り、襖を閉じた状態で実験を行った。また第四回目の実験では、当初、財布を入れた包み紙を誰かの懐中に入れて透視を行ってもらおうとしたが、千鶴子がこの方法を嫌がったため、結局従来どおり一人別室での透視を行うことになった。
共同実験から10日後の明治43年4月25日になると、福来博士は東京帝国大学で開催された心理学会の第九十一回例会において、御船千鶴子に対して行った実験の報告をした。
例会には80人ほどが集まり、出席者の中には福来博士の恩師である元良勇次郎教授をはじめ、三宅秀、片山国嘉、井上哲次郎、長岡半太郎、呉秀三などの著名な学者も多数参加していた。
この例会では活発に議論がなされ、いくつかの仮説が提案されたが、福来博士はそれらを検証するため、例会後に千鶴子に依頼して通信実験を行っている。
また今村博士のほうも通信実験を行い、その後の明治43年6月27日から7月15日までの期間には、『大阪朝日新聞』の第一面に「透視に就いて」と題した連載寄稿文を発表している。
結果としてこの寄稿文は反響を呼び、「千里眼」や「透視」といった言葉を世間に流布させるキッカケとなった。ちなみに今村博士は千鶴子の実験について、彼女が立会人に対し背を向けて透視を行うことや、一人別室に入って襖を閉めること、実験物を手に持つことなどについて「甚だしく遺憾」であると述べてはいるが、連載全体を通しての千鶴子の評価としては肯定的であった。
今村博士の連載が終了してから約一ヶ月半後の明治43年8月29日・30日の両日に、大阪商工教育会の主催による透視に関する講演会が大阪市内の教育会館で開催された。
講演を行ったのは福来友吉博士で、御船千鶴子も来賓として招かれた。
そして講演終了後の9月2日から5日までの期間には、福来博士と千鶴子一行が投宿していた京都市麩屋町の「俵屋旅館」にて、今村新吉博士も参加して再度の共同実験が行われた。
立会人は、福来、今村の両博士に加え、千鶴子の父親、清原猛雄の計4人。
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
三文字が書かれた紙を今村博士が用意し、この紙は前回の実験でも使用した茶壷と木箱に収め、紙で封をした。 | 暑さと疲労のため、透視できなかった。 |
第二回 |
一回目と同じ方法で実験。 紙には「庄意夏」と書かれていた。 |
しばらく休憩した後、実験再開。 14分2秒後に「庄意夏」と答える。 |
第三回 |
一回目と同じ方法で実験。 紙には「見旦宗」と書かれていた。 |
13分14秒後に「見旦宗」と答える。 |
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
扁平の鉛管に意味のない三文字を書いた紙を入れ、両端を叩いてハンダ付けした実験物を50個用意し、この新実験物の構造についての説明を千鶴子に対して福来博士が行った。 紙には「横盟弊」と書かれていた。 |
11分25秒後に「梅」と答える。 |
第二回 |
一回目と同じ方法で実験。 |
精神統一ができないとの理由で失敗。 |
第三回 |
実験方法を従来の茶壷に入れて紙で封をする方法に戻した。 紙には「盗亡倫」と書かれていた。 |
10分42秒後に「盗亡倫」と答える。 |
第四回 |
一回目と同じ鉛管を用いた実験を行う。 | 集中できないとの理由で実験中止。 |
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
前日に使用した鉛管の中に三文字を書いた紙を入れ、鉛管の端は開けたまま封筒に収めて封をした。 紙には「水文字」と書かれていた。 |
14分21秒後に「水文字」と答える。 |
第二回 |
一回目と同じく鉛管の端は開けたままにして紙を入れ、鉛管は木製の円筒に収めてフタに封をした。 紙には「忠則盡」と書かれていた。 |
7分58秒後に「忠則盡」と答える。 |
第三回 |
ハンダ付けした鉛管を円筒に収めて実験。紙には「耳典世」と書かれていた。 | 11分25秒後に「天心言」と答える。 |
第四回 |
従来通り、錫製の茶壷に紙片を入れ、その茶壷は木箱に納めて封をした。 紙には「侍明左」と書かれていた。 |
14分57秒後に「侍明左」と答える。 |
第五回 |
紙片を入れた鉛管を木製の円筒に収めフタに封をした。 | 13分6秒後に部屋から出てきたが、三つの文字がもうろうとして一塊になり、よくわからないというので実験は中止。 |
最終日は千鶴子の前で鉛管のハンダ付けをし、その後に透視実験を行ったが、千鶴子はどうしても精神統一ができないと言うので実験は中止になってしまった。
この四日間を振り返ってみると、千鶴子はすべての実験で一人別室に入り、襖を閉じて実験を行っていた。内容も、開封可能である実験物の場合は相変わらず成功率が高かったが、鉛管にハンダ付けした実験物のように、道具がなければその場での開封が不可能な場合は失敗した。
しかし、当時の世論は千鶴子をヒロインとして扱った。この京都での実験の前に大阪入りした際には、宿泊先の旅館に約800通を超える手紙が千鶴子宛に届いたというし、京都では千鶴子のために専用の「特別列車」が出されるなど、破格の扱いを受けた。
後に彼女は、このときの気持ちとして「にわかに女王様にでもなった気がします」と語っている。
京都での実験から10日ほど経った明治43年9月14日、今度は東京で公開実験が開催された。
実験に立ち会ったのは、福来、今村の両博士に加え、千鶴子の父・御船秀益、義兄・清原猛雄、熊本済々黌中学の校長・井芹経平、さらに元東京帝国大学総長の山川健次郎、理学博士の丘浅次郎、田中館愛橘、医学博士の呉秀三、大沢謙二、片山国嘉、入沢達吉、三宅秀、文学博士の井上哲次郎の計14名。
この実験では当時を代表する錚々たる学者が参加し、さらに各新聞社の記者も参加したのでかなり話題となった。
しかしこれだけ多くの学者が参加した実験となると、いかにも学者たちが千鶴子側を呼びつけて高慢な態度で実験を行ったように誤解されることがあるが、実際は全くそんなことはなかった。
千鶴子たち一行が上京した第一の目的は公開実験に参加するためではなく、地元の旧熊本藩主・細川護立の妻・弘子夫人が結婚後4年経っても子どもができないので、千鶴子に人体透視を依頼したことを受けてのものだった。また、この上京は東京見物も兼ねており、実験はあくまでも「おまけ」のようなものだった。
ちなみにこの実験を発案したのは福来博士だったが、主催したのは御船千鶴子自身である。彼女にしてみれば、今回の実験を成功させることにより、「透視」を社会的に認めさせたかったのだろう。
実験は、東京の麹町中六番町にあった大橋新太郎氏の自宅で行われた。立会人は上でも紹介した14名。
千鶴子に透視してもらう実験物は、紙片を鉛管に収めハンダ付けしたもので、山川健次郎博士が20個用意した。そしてこの鉛管の中から一個を任意に選び、重さを計量。
千鶴子に鉛管を渡すと、彼女は一人で二階に上がり、実験をするために用意された部屋に屏風を立て、透視を開始した。監視役には山川博士と大沢博士が選ばれ、二階の別室で様子をうかがった。
しばらくすると千鶴子は屏風の中から姿を現し、鉛管の中の紙片に書かれているのは「盗丸射」の三文字だと答えた。その場でノコギリを使って中身を確かめると、たしかに「盗丸射」と書かれた紙が入っていた。
しかし、この三文字を見た山川博士は疑問の声を挙げる。自分が用意した20個の実験物の中には、「盗丸射」と書かれた紙は入っていないというのだ。別紙にあらかじめ書いておいた答えを見ても、確かに問題の三文字は含まれていなかった。
では一体、千鶴子が透視した実験物は何だったのか?
これは、この日の夜にはわかっていたことだったが、千鶴子が透視した実験物は、前日に福来博士が「練習用」として渡していた鉛管だったのである。
千鶴子はこの練習用の鉛管を、実験の当日に「お守り」として持参し、透視を行った際にも懐中に忍ばせていたという。しかし、この日に渡された鉛管はどうしても透視できなかったので、かわりに練習用の鉛管を透視して提出したというのだ。
この一連の騒動については、『千里眼事件』(平凡社)の著者である長山靖生氏が、その著書の中で次のように書いている。
「『誰が』『どのようにして』『どの時点で』すり替えをおこなったかは、もちろん実験の再開のためには明らかにすべき事柄である。しかしそうした個別の事象よりも、実験に先立って持ち物の検査もなされず、被験者の手元を主催者側も立ち会った者たちも見ることができないという事態のほうが、はるかに大きな問題だった。それはこの実験の管理の杜撰さ、ひいては信憑性の低さが(それが悪意や作為によるものではないにせよ)露呈されるものだった。しかしこれらの問題点は、その後の実験でも、容易には改められなかった」
長山氏が指摘しておられるように、この第一回実験の最大の問題点は、事前に持ち物検査すらされず、透視の際には別室で屏風を立てて姿を隠すような、杜撰で信憑性の低い実験スタイルがまかり通っていたという点だろう。
またこの実験に際し、「主催者側」である福来博士にも問題があったとして、長山氏は次のようにも指摘している。
「博士自身は、前日に自分が製作した鉛管三個を渡していたことを、もちろん覚えていたはずだ。だが実験結果に疑義が生じているその現場では、博士はその事実を誰にも知らせていない。これもまた公正さを欠く態度と見られる可能性があった」
「(中略)私がこだわりを覚えるのは、実験物がすり替わっていると判明した際、山川博士が自分が実験資料を作る際に福来博士から借りたものが混じったのかもしれないと語り、諸博士があれこれと原因を類推して語り合い、ひとつの資料を開封してみたりしている間、福来博士は自分が千鶴子に昨日渡した透覚物を回収していなかったことを、一言も語っていない点だ。福来はこの時点で、それがどうしてすり替わっていたか、分かっていたはずだ」
次に千鶴子の問題点。(長山氏は著書の中で、以下の点を「管理体制の問題点」として挙げておられるが、実際は千鶴子の問題点でもあるといえるだろう)
「彼女は、実験室での精神統一の後、「盗丸射」という透視結果を告げてから程なく、透視できなかった鉛管(実験用に渡された品)を、「こちらは分かりませんでした」とオープンに返却するのではなく、黙って、居合わせた誰もが気づかないうちに準備してあった他の実験資料のなかに戻している」
こういった問題点は、この後に実験を続ける上で重要なことだったはずだが、結局、当時は指摘されることはなく、また改善されることもなく、この事件はうやむやのうちに終わってしまった。
(一応、初日の実験はこの後に二度行われたが、両方とも失敗に終わった)
二日目の実験は、当初の予定どおり千鶴子ら一行が宿泊していた淡路町の関根屋旅館で行われた。立会人は『東京朝日新聞』、『東京日日新聞』、『日本新聞』、『心理時報』の各記者。
実験では名刺大の白紙に三文字を書き、それを任意に選ぶと、裏向きのまま錫製の壷に入れて木箱に収めた。箱のフタには十文字に紙の封をし、四人の記者が封印を押した。(写真は、千鶴子の実験でよく使われた茶筒と木箱)
実験の監視役にはクジで『心理時報』の記者が選ばれ、彼が木箱を持って三階に用意された実験部屋に行き、千鶴子の様子を襖を開けた隣の部屋から観察した。(言うまでもないが、千鶴子は後ろを向いて透視を行った。手元は全く見えない)
透視のほうは9分53秒後におわり、木箱に入っているのは「心神通」だと千鶴子は答えた。中を確かめると、紙片には彼女が答えたとおり「心神通」の三文字が書かれていた。
やはり、ハンダ付けをせず後ろ向きで開封可能な状態の実験物では成功するのは、いつものことである。
【写真引用元】
『心霊と神秘世界』 福来友吉【著】(心交社)
最終日の実験は、一日休息を挟んで翌9月17日に行われた。
立会人は、理学博士の山川健次郎、田中館愛橘、丘浅次郎、文学博士の井上哲次郎、元良勇次郎、姉崎正治、医学博士の三宅秀、呉秀三、片山国嘉、大沢謙二、入沢達吉、三宅鉱一、東京高等師範学校教授の後藤牧太、ほか学士数名と、主催者側の福来、今村の両博士、そして千鶴子の父・御船秀益、義兄の清原猛雄、熊本済々黌中学の校長・井芹経平たちの、計20名ほどの面々である。
実験方法は、前回の鉛管で失敗しているために、千鶴子がこれまでの実験で最も慣れている錫製の壷に紙片を入れて行われた。
この壷は木箱に収められ、箱の下縁にある穴へ紐を通して箱全体を蓋の上で結わえつけ、一度解くと二度と結べないほど結び目の余り紐を切り落とす。 そして、出席者たちがそれぞれの認印を捺した和紙で紙縒(こより)を作り、それを紐の結び目に結わえ、その両端を切って墨を塗り、さらにその上に大きな紙を覆って貼り付け、出席者が思い思いに割印を捺した。
この実験物は山川博士が千鶴子のいる3階まで運び、井上哲次郎博士が代表となって、襖を開けた別室から後ろ向きで透視を行う千鶴子の様子を観察。
千鶴子は10分21秒後に「道徳天」の三文字を答えた。その後に出席者の前で中身の確認がされたところ、中に入っていた紙片には「道徳天」の三文字が書かれていた。結果は成功である。
正直な意見を述べさせてもらえば、当初、この実験成功は注目に値するものだと私は考えていた。鉛管のように、その場で開封不能な実験物ではなかったとはいえ、「一度解くと二度と結べないほど結び目の余り紐を切り落とした」という点を考えると、イカサマを行うのは無理ではないか? と思ったのである。
しかし疑問を持つだけは物足りないので、実際にイカサマが可能かどうか同じような実験物を用意し試してみた。すると、確かに紐を解いた後、もう一度余り紐があるときと同じようにフタの上で結ぼうとすると、非常に困難なことはわかった。
だが紐をフタの上で結ぼうとせず、横に抜けた状態で結ぼうとすれば、余り紐が短くとももう一度結び直すのは、それほど困難なことではない。
紐は箱下の縁にある穴に通されているので、輪のようにして完全に外すことはできないが、上の抜けた部分をはめ込むようにすれば、やや強引だが完全に元に戻すことができた。
またこの方法以外にも、紐を強く引っ張ってわずかに余裕ができるようにすれば、紐はほどかずとも、木箱のフタだけを横にずらすようにして外せば、中にある壷から紙片を取り出すことが可能であることもわかった。(その際、紐は横にずらす)
また、紙縒りの解き方については、実際にこの日の実験にも参加した東京高等師範学校の後藤牧太教授が次のように指摘している。
「紙縒(こより)を解き、紐を解いて箱の蓋を開け、壷の蓋を開けて、字を書いた紙をつまみ出して見、又元の通りにしておくことは誰にでもできるのである。現に田中館博士が透視の済んだあとで、こよりを爪先でわけもなく解いた。解いたこよりを元の通りに結ぶことは、爪の先で出来る。針でもあれば容易くできる。千鶴子が封を解いたということは断言することはできないが、開くことのできる封では、封をしないも同様で封は何の役にも立たないから、実験法が不完全だと言わなければならない。千鶴子の側には硯(すずり)箱が備えてあるから、千鶴子がこよりの結び目に墨を塗ろうと思えば、これもできることである」
『東洋学芸雑誌』第二十巻
ちなみにこれらの作業を行う際は、肘から先だけを動かすようにすれば後ろから見られてもバレることはない。また千鶴子のように着物を着ていれば、腕の動きはかなり隠される。
だがもちろん、これらは推論であり、千鶴子がイカサマを行ったという確かな証拠があるわけではない。しかし、後藤教授が指摘しているように、開封可能な実験物を用いたのでは封をしないも同様であり、実験法が杜撰であったという点は問題点として指摘しておかなければならない。
東京での公開実験から2ヶ月後の明治43年11月17日になると、今度は熊本で実験が行われた。
実験を行ったのは福来友吉博士で、初日の実験場所は熊本の旅館「研屋」、立会人は福来博士と清原猛雄の2名のみ。以下はその詳細である。
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
鉛管の中に紙片を入れ、ハンダ付けしたものを用意。 | 「文字が見えない」との理由で失敗。 |
第二回 |
大学の暗室で活字を拾って製作した実験物を用意。 紙には「工客宇」と書かれていた。 |
「工客宇」と答える。 |
第三回 |
第二回と同じように作った実験物を使用。 | 「文字が見えない」との理由で失敗。 |
第四回 |
第三回と同じ実験物を使用。 紙には「彦戌別」と書かれていた。 |
「彦戌別」と答える。 |
二日目の実験は、熊本済々黌中学の井芹校長の自宅にある書斎で行われた。
立会人は福来博士と井芹校長夫人の2名のみ。
実験物は、二個のサイコロを黒塗りの巻きタバコの箱に入れ、紙にて帯封。紙の接ぎめには封印を捺した。そしてこの箱を福来博士が数回振ってから千鶴子に渡し、中にある二つのサイコロの目を透視するように依頼した。
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
1と1 |
5分7秒後に「2と5」と答える。その後、曖昧だからとの理由で再透視。答えは前回と同じ「2と5」だった。 |
第二回 |
1と4 |
5分31秒後に「1と4」と答える。 |
第三回 |
3と6 |
2分5秒後に「3と6」と答える。 |
第四回 |
2と6 |
3分14秒後に「2と6」と答える。 |
結果はご覧のとおり、4回中3回が正解と好成績である。
しかし、この実験も従来どおり千鶴子は後ろを向いて手元を隠していたため、福来博士は不満を持っていた。そこで続く午後の実験では、正面を向いて透視を行ってくれるように千鶴子を説得。
彼女は、顔を見られては精神統一ができないというので、部屋と部屋との間の鴨居から毛布を垂らして上半身を隠し、透視の際は体を斜めに向けてはいたものの、手元が見えるような状態で実験を行うことを初めて許可した。
実験番号 |
実験内容 |
千鶴子の透視結果 |
|---|---|---|
第一回 |
4と5 |
3分5秒後に「1と3」と答える。 |
第二回 |
5と5 |
3分44秒後に「4と5」と答える。 |
第三回 |
2と5 |
1分38秒後に「2と5」と答える。 |
第四回 |
2と5 |
1分59秒後に「2と5」と答える。 |
第五回 |
1と2 |
1分51秒後に「1と2」と答える。 |
手元を見せての初の実験では、5回中3回が成功した。
しかしこの実験に関して、明治大学教授で、日本超心理学会の初代会長でもあった小熊虎之助は、海外の事件や日本で起きた千里眼事件なども研究した良書
『心霊現象の科学』(芙蓉書房)の中で次のように指摘している。
「千鶴子の透視実験のうち、学術的な実験はただ第六回の実験だけにすぎなく、しかも透視の適中したのはただ五回のうち三回にすぎない。このような少数の実験とその適中とで、確実にこの透視という殆ど前例のないような新能力の存在することを断言し得るのだろうか。そのような断定はあまりに蒼急すぎることは明炳である。
(中略)元来確率は、実験の回数が多いほどその確かさの度を増すものであるから、透視を少なくとも二三十回位して、それでもその結果が三十六分の一よりも多いというなら、かなり透視能力も確かになってくる。ただ五回のうち三回当たったというだけでは、偶然の適中、詳しくいうと、透視能力以外の普通の原因からの適中ではないという、十分な証拠にはならないのである」
ここで小熊が指摘している「透視能力以外の普通の原因」とは、たとえば、実際に出たサイコロの目が前回と全く同じだったり、片方の数字が続けて出ていることから、実験物のタバコの箱やサイコロに問題があったのではないか、ということである。
つまり巻きタバコを入れる箱というのは小型なので、サイコロを入れて振ってもうまく回らず、同じ数が続けて出てしまう可能性があることや、サイコロ自体の作りに偏りがあり、やはり同じ数が続けて出てしまった可能性があるということだ。
本来なら、これらの可能性を排除するためにも、実験物はサイコロが良く回る大きな箱を用いたり、実験が一回終わるごとに答えを教えない、サイコロは複数用いる、実験回数を増やすなどの措置を行うべきだったと思うが、実際は残念ながら、このようなことは行われなかった。
これまで千鶴子に対して行われた実験を多く見てきたが、ここではいくつかの注目すべき実験について紹介しようと思う。
千鶴子に関しては、よく「紙で封をした実験は成功したが、鉛管を用いた実験では“すべて”失敗した」と言われることが多い。
ところが実際に詳しく彼女の実験を調べてみると、少数ながらも千鶴子は、鉛管を用いた実験でも成功しているのである。これは公平を期すためにも是非紹介しておかなければならないだろう。
以下は、私が注目すべきものだと考えている三つの実験結果である。
(1) 明治43年(1910年)9月5日の夕方に行われた実験。立会人は福来友吉博士と旅館の女中。透視に要した時間は約4分。透視した文字は「阜營公」の三文字。
(2) 上と同じ明治43年(1910年)9月5日の夕方に行われた実験。立会人は福来友吉博士と旅館の女中。透視に要した時間は6分23秒。この時は鉛管を茶壷に入れて封をしたものを透視した。透視した文字は「中囘人」の三文字。
(3) 明治43年(1910年)11月19日に行われた実験。立会人は福来博士と清原猛雄。透視に要した時間は3分16秒。透視した文字は「無受次」の三文字。
これら三つは全部、鉛管の中に紙片を入れて行われたものだ。
しかしこの三つにはいくつか共通する疑問点もあり、疑わしい点がまったくないわけではない。たとえば、この三つは全部、最初に失敗して暫く時間が経ってから行われた再実験であることや、3回とも、千鶴子側から福来博士に再実験を申し出ている点などだ。
このあたりをよく考えると、もしイカサマを行っていたのであれば、福来博士が鉛管のある部屋から離れているときに鉛管を取り出し、その後中身を見てハンダ付けをした鉛管を元に戻せば、中に何が書いてあるか事前に知ることが可能である。
福来博士によれば、この作業(鉛管の中身を確認して再びハンダ付け)を10分程度で行うのは不可能らしいが、それよりも時間があるのであれば(実際十分に時間はあった。最後の実験は二日分も時間あり)、イカサマの可能性も考えられる。
またこれら三つは全部、襖を閉じた別室で千鶴子が一人で行ったものであり、手元や実験物はもちろん、後ろ姿さえ実験中は見ることはできなかった。こういった完全に密室での実験だったことも疑惑を抱かせる原因となる。
しかし、これまで“すべて”失敗したと言われることの多かった鉛管を用いた実験において、少数ながらも成功していた事例があったことは確かな事実である。
いくつかの疑問点や、実験の際は中の様子がまったくわからない別室で行われたという致命的な欠点はあるので、この成功をもって透視能力が本物だとは考えられないが、それでも期待を抱かせる注目すべき実験だとは言えるだろう。
【写真引用元】
『日本霊能者列伝』(宝島社)
最後は千鶴子が自殺した件について書いておきたい。
御船千鶴子は明治44年1月18日に、染料用の重クロム酸カリを服毒し、翌19日の未明に亡くなった。享年25という若さだった。
この死に関し、千鶴子を扱ったテレビや雑誌、本などの多くでは、「彼女の能力は本物だったが、学者やマスコミによってその能力を否定され、死に追い込まれてしまった悲劇のヒロイン」として祀り上げられることが多い。
しかし、こういった見方には異論がある。
たとえば、千鶴子が亡くなった当時、彼女の能力を表立って否定する学者というのは少数しかおらず、多くの学者は福来博士の実験が杜撰なために懐疑的ではあったが、能力を検証するためには今後も継続して実験を行う必要があると考え、中立的な立場をとっていた。また千鶴子の能力を肯定する学者というのも確かに存在したのである。
当時、東京帝国大学の助教授で、千鶴子のことを最も多く実験した福来友吉博士は彼女の能力を全面的に信じていたし、京都帝国大学の今村新吉博士や、大阪府立高等医学校長の佐藤愛彦博士、新潟医学専門学校の藤田敏彦教授なども、千鶴子に対して肯定的だった。
決して、多くの学者に一方的に否定されたわけではないのである。
またマスコミに関しても、死の前に千鶴子を批判的に扱ったものはわずかしかなく、彼女の鉛管すり替え疑惑をもって「千鶴子も大詐欺師也」と報じた『夕刊報知』の記事が世に出たのは、千鶴子が服毒した翌日(1月19日)の夕方だった。
この大々的な批判記事が出る前のわずかな批判記事を気に病んでいた可能性はあるが、これだけが自殺の原因であるとは考えにくい。
また、千鶴子の後に透視能力者として頭角をあらわし、注目されていた四国の長尾郁子に対する新聞の批判記事を見て、千鶴子は死を選んだとも言われることがあるが、これにも異論がある。
福来友吉の著書『心霊と神秘世界』(心交社)によれば、千鶴子は自分より注目を集め始めていた長尾郁子のことをライバル視しており、少なからず嫉妬心を持っていた節があるのだ。
福来博士は千鶴子が最後の実験で鉛管の透視を成功させたあとの様子について次のように記している。
「彼女は勝ち誇ったような悦びを満面に張らしていた。長尾夫人は鉛管封入の実験物については透視出来ぬということが噂に上がっていたから、千鶴子嬢はそれを透視し得たことについて、勝者の得意を抱いていたのであろう」
これを見ると、長尾郁子がどんなに批判されようが、千鶴子自身が実験を成功させさえすれば、相対的に再び自分の透視能力が注目を集めると考えていた可能性がある。ならば郁子に対する批判記事はピンチではなく、むしろチャンスと捉えていたのかもしれない。
しかしそうなると、千鶴子が自殺した理由として最も可能性が高いと思われるのは一体何なのだろうか?
この件については、明治から大正にかけての千里眼事件について研究している一柳広孝氏の著書『「こっくりさん」と「千里眼」―日本近代と心霊学』(講談社)によれば、千鶴子の父・秀益が彼女の能力を利用して一儲けしようと考え、なにかにつけて自宅で能力を使わせようとしたため、利欲に薄い千鶴子はそのことで悩んでいた、と地元の熊本では見られていたという。
現にこのことに関して、福来博士と今村博士は御船家に家庭内の問題があったことをほのめかしている。
また、二人とも治療院を営み、千鶴子の透視能力者としての知名度で莫大な利益を上げていた父・秀益と義兄の清原猛雄との間で、千鶴子を巡る争奪戦があったとも言われている。(千鶴子の死後、御船家に遺された遺産は当時の金で二十万円。現在の価値に換算すれば数億円にもなる莫大な金が遺されていた)
結局、彼女は金や利権が絡むことに嫌気がさしたのではないだろうか。
(とはいえ千鶴子自身、とくに資格もなしに治療行為を行い金銭を得ていたことを考えると、こういったトラブルに巻き込まれるのはある意味必然であったのかもしれないが)、それでも25歳という若さでの死は早すぎた。悔やまれる最期である。
【参考資料】
- 『心霊と神秘世界』 福来友吉 (心交社)
- 『透視も念写も事実である』 寺沢龍 (草思社)
- 『千里眼事件』
長山靖生 (平凡社)
- 『心霊現象の科学』 小熊虎之助 (芙蓉書房)
- 『「こっくりさん」と「千里眼」日本近代と心霊学』
一柳廣孝 (講談社)
- 『超能力・トリック・手品』
ものの見方考え方研究会 (季節社)
- 『貞子ウィルス』 大野和雄 (鳥影社)
- 『日本霊能者列伝』 (宝島社)
- 『The Encyclopedia of Parapsychology and Psychical Research』 A. S. Berger / J. Berger (Marlowe & Co)
