モーゼの墓

 

伝説石川県宝達(ほうだつ) 志水町には、「十戒」で有名なモーゼの墓がある。古代世界の成り立ちが記された 『竹内文書』(たけうちもんじょ) によると、モーゼは古代日本の能登にやってきて天皇に十戒を彫り込んだ「十誡石」を献上。承認を待つ間、彼は第一皇女の 大室姫(おおむろひめ) をめとって、12年の新婚生活を日本で送ったという。

やがて天皇から十戒の承認を得たモーゼは、 天空浮船 (あめそらうきふね) と呼ばれる古代世界に存在した飛行艇に乗って日本を出発。イタリア・ボローニャ地方を経由してシナイ山に戻り、十戒を世界に広めるという大役を果たした。

その後、モーゼは余生を過ごすために再来日。583歳という長寿を全うして、最期は宝達山のふもとにある三ツ子塚に葬られたのである。

なお、三ツ子塚は古墳であることが確認されており、埋蔵文化財にもなっている。また戦後、このモーゼ伝説を聞きつけたGHQは塚を掘り起こして発掘を行っている。しかし、その詳しい調査内容と結果は極秘とされた。

これらのことを踏まえて考えれば、三ツ子塚に眠るモーゼの墓は決して荒唐無稽な話ではなく、むしろ公的にも認められた真実に近い話だと言えるだろう。

 


 

謎解きモーゼの墓の最大の根拠は『竹内文書』である。そもそも、この『竹内文書』とは、6世紀頃、国史の古記録消失を恐れた武烈天皇の勅命により保管され、それが新宗教 「天津教」(あまつきょう) の教祖・竹内巨麿(きよまろ) の代(※注1)まで筆写されて伝わったと称するものである。

【※注1】 巨麿は、5人の天皇に仕えたとされる武内宿禰の子孫(より正確にはその養子)であると自称していた。

しかし、その『竹内文書』を巨麿が初めて世に公開したのは昭和3年のこと。当時、多くの名士たちの信奉を集める一方で、当然のことながら後世に作られた偽書であるとの批判も出ている。


『竹内文書』の問題点

『竹内文書』の問題点については、元京都帝国大学の学長・狩野亨吉が1936年に発表した論文『天津教古文書の批判』が詳しい。

この論文で狩野は、『竹内文書』の問題点や矛盾点を鋭く指摘しているので、ここではその一部を紹介しておこう。

  • 当時使われていなかった文法や、仮名遣いの誤りが多々見られる。
  • 当時の他の文書には見られない、後世に流行した用語が使われている。
  • 地位を表す位階の記述において、当時ならあるべき「上・下」の記述がない。位階の上下がなくなったのは明治20年である。
  • 「長慶太神宮御由來」の記事では、幕末の三筆の一人である書家・巻菱湖の影響を受けた書体で書かれている。
  • それぞれ違う時代、違う人物によって書かれたはずの文書が同じ筆跡になっている。

ご覧のとおり、このような問題点、矛盾点の存在によって、『竹内文書』は後世に偽造された可能性が極めて高く、偽書であることはほぼ間違いないとされている。

そしてそれは、「モーゼの墓」の最大の根拠が、実は根拠たり得ないことを同時に意味しているのである。


GHQは調査したのか?

最大の根拠が崩れたとはいえ、伝説で言われている三ツ子塚古墳が埋蔵文化財であるという話や、GHQが極秘調査したという話はどうだろうか。

まず、前者の件は石川県の教育委員会文化財課に問い合わせて確認したところ、埋蔵文化財であることは事実だと判明した。しかし、これは三ツ子塚古墳にモーゼが葬られているからではない。

もともとこの三ツ子塚はモーゼとは関係のない古墳であり、はにわなどが出土していた。また、山伏の修験道の通り道だった歴史なども考慮され、正式名称「河原三ツ子塚古墳群」として埋蔵文化財の鑑査に通ったのである。(そして現在は「モーゼパーク」という観光スポットとして整備もされている)

一方、GHQの極秘調査の真相については、管理元である宝達志水町の生涯学習課に問い合わせて、私が直接話を伺った。以下にその概要を示そう。

  • 戦後のあるとき(おそらく昭和20年代)、アメリカ軍の兵士たちがモーゼの墓を調べるためにやってきたことは事実。
  • しかし、その兵士たちがGHQと関わりがあったのかは不明。また正規の調査だったのか、個人的なものだったのかも不明。
  • 兵士たちは、地元の人たちにアルバイト料を払って発掘に協力してもらった。
  • 発掘に協力したのは地元の青年団や公民館の職員(昭和一桁台生まれ)など。私が話を伺った生涯学習課の職員の方は、直接、その人たちから生前に話を聞いている。
  • 発掘に使ったのは地元の人たちが用意した農業用の鍬など。
  • 実際に発掘されたのは錆びた鉄器類などで、人骨は出なかった。


大体、以上である。 話を伺った限りでは、アメリカ軍の兵士が発掘にやって来たことは事実であると確認できたものの、GHQによる正規の調査だったのか、それともただの個人的興味による発掘だったのかは不明だった。

しかし、兵士たちが地元の人たちにアルバイト料を払って発掘に協力してもらったり、発掘結果を隠していなかったりしたことは興味深い。これはつまり、極秘などではなかったことを意味している。そして、三ツ子塚にモーゼが葬られているという確かな証拠は、結局何も得られていないことが確かめられたともいえる。


観光スポットとしての「モーゼの墓」

さて、ここまではモーゼの墓の真偽の検証に焦点を当てて書いてきた。しかし結果としてモーゼが本当に葬られている可能性はほとんどない、ということになったとしても、このモーゼの墓が観光スポットであることに変わりはない。

実は私も、調査と観光をかねて現地に行ってきた。そこで最後は、現在「伝説の森公園」(モーゼパーク)として整備されている、この(B級)観光スポットを写真付きで紹介して終わりとしたい。(以下の写真はクリックすると全部拡大できる)

 

 

まず左の写真が、現地に行って最初に目にするモーゼパークの場所を示す案内板だ。右は坂を登っていった先にあるモーゼパークの看板。

 

 

横にはパークらしい広場(左)と、不思議なモニュメント(右)が建っている。

 

 

そしてモーゼパーク全体を示す案内板と、三ツ子塚へと続く山道の入り口。

 

 

山道を少し登り始めると、左側に記帳所がある 。中には、「ある超能力者が描いたモーゼの墓」と題するイラストや、由来が説明されている。

 

 

さらに山道を登ると、5分ほどで「三ツ子塚古墳群」と書かれた案内板が見えるので、それに従って登っていく。(「モーゼの墓」と書かれた案内板はないので注意)
すると、開けたタイル張りの広場に出る。そこが三ツ子塚のすぐ下だ。

 

 

広場には「モーゼの伝説」と題された白い説明版(英語も併記)がある 。
そして、その横にある細い山道を登っていくと、ついに目的地へ。

 

 

これが三ツ子塚にあるモーゼの墓。(左)
土台の石と角柱が2本だけという、かなり質素なつくりだ。角柱には『竹内文書』と関わりの深い「皇祖皇太神」の文字が書かれている。



 

左の写真2枚は、脇に立っていた角柱。「モーゼ一族」の文字が見える。
この他、2つの塚には、天皇がモーゼに嫁がせたという「大室姫」と、その孫の「タルヲスイチヒリウス」が葬られていることになっている。しかし実際、塚に登ってみると墓標らしきものは何もない。かわりに白い綺麗な花が咲いていた。

なお、「モーゼパーク」の場所については以下の地図を参照してほしい。本物の可能性はほとんどないとしても、こういった話が好きな人なら実際に行っても楽しめるだろう。


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(記事公開日:2009年9月30日)