モーゼの墓

 

伝説石川県宝達志水町には、「十戒」(※注1)で有名なモーゼの墓がある。古代世界の成り立ちが記された 『竹内文献』 によると、今からおよそ3430年前、不合(あえず)朝第69代神足別豊耡(かんたるわけとよすき)天皇の時代に、モーゼは船で日本の能登に渡来。

【※注1】 「じっかい」と読む。モーゼがシナイ山で神から授かったとされる10箇条の戒め。順に、唯一神の信仰、偶像崇拝の禁止、神の名をみだりに挙げないこと、安息日を守ること、父母を敬うこと、その他、殺人、姦淫、窃盗、偽証、貪欲の禁止と続く。

天皇に十戒を彫り込んだ「十戒石」を献上し、承認を待つ間、天皇の第一皇女である大室(おおむろ)姫を妻に迎えた。そして12年間、神道の修行に励んだという。

やがて天皇から十戒の承認を得たモーゼは、 天空浮船(あめそらうきふね)と呼ばれる古代世界に存在した飛行船に乗って宝達山を出発。イタリア・ボローニャ地方を経由してシナイ山に渡り、十戒を世界に広めるという大役を果たした。

その後、モーゼは余生を過ごすために再来日。583歳という長寿を全うし、最期は宝達山のふもとにある三ツ子塚に葬られた。それが現在も宝達志水町に残されているモーゼの墓である。

読者の中にはこういった話を荒唐無稽だと思う方もいるかもしれない。けれどもモーゼが葬られた三ツ子塚は古墳であることが確認されており、石川県の埋蔵文化財になっている正真正銘の墓なのである。

また地元には「平林」という地名があるのだが、奇妙なことに、その読み方は「ひらばやし」ではなく「へらいばし」と読まれている。これはモーゼと関係の深いヘブライとの繋がりを示しているのではないか?

さらに戦後、こういったモーゼ伝説を聞きつけたGHQが塚を掘り起こして発掘調査も行なっている。そのときの調査では、墓の近くの石灰山で、膝からくるぶしまで約75センチもある巨人の骨や、異国風の兜、奇妙な形の貴金属に、土器と思われる壺などが発掘されたという。

言い伝えによれば、モーゼの身長は2メートルもあったといわれている。発掘された人骨がモーゼのものであっても不思議はない。むしろ彼が宝達山の三ツ子塚に葬られているという話は、がぜん信憑性を帯びてくるのである。

 


 

謎解きモーゼの墓の伝説で、その最大の根拠となっているのは『竹内文献』である。『竹内文献』とは、6世紀頃、国史の古記録消失を恐れた武烈天皇の勅命により保管され、それが新宗教「天津(あまつ)教」の教祖・竹内巨麿(※注2)の代まで筆写されて伝わったと称する歴史書である。

【※注2】 竹内家第66代当主を自称。名前は「きよまろ」と読む。若い頃に鞍馬山で修行を積んだり、神霊から道術を学んだりといった逸話を吹聴していた。1899年、茨城県磯原に皇祖皇太神宮(天津教)を開き、多くの信者を獲得した。

しかし、その『竹内文献』を巨麿が初めて世に公開したのは昭和3年のこと。当時、多くの名士たちの信奉を集める一方で、その突飛な内容から後世に作られた偽書であるとの批判も出ている。

中でも『竹内文献』の致命的欠陥を指摘したものとしては、元京都帝国大学教授の狩野亨吉による論文『天津教古文書の批判』が詳しい。この論文で狩野は、『竹内文献』の中から5つの古文書を取り上げ、その問題点や矛盾点を次のように指摘している。


・当時は使われていなかった文法や仮名遣いの誤りが多々見られる

江戸時代以前には所有格を示す「の」は、たいてい「之」という字を使ったが、鑑定した文書ではことごとく、ひらがなの「の」が用いられている。
この他にも、誤字、脱字、不要な字などがあったり、仮名が多すぎたりする点などから、明治以降の作である可能性が高いと考えられる。


・名前を少し変えただけの人物が多数出てくる

文書に出てくる竹内家郎党の多くは実在が確認されていない。しかし郎党の名前を一字か二字変えると、明治時代以降の著名人たちの名前と一致する。


・地位を表す位階の記述に誤りがある

応永年間(1394年〜1428年)に存在したとする人物について「紀氏竹内越中守正四位惟眞」と書かれている文書があるが、律令制下の位階では「正」「従」の他、四位以下は「上」「下」のいずれかをつける。応永年間に「正四位」という位階は存在しない。位階の上下がなくなったのは明治20年(※注3)のことである。

【※注3】 この点は狩野の誤り。位階の上下は明治20年よりも前の、明治2年に廃止されている。


・史実と合わない

「後醍醐天皇御眞筆」と称する文書は、書かれたのが1341年となっているが、後醍醐天皇はそれより2年前にすでに崩御している。


・違う人物による文書が同じ筆跡になっている

違う人物によって書かれたはずの「長慶太神宮御由來」「長慶天皇御眞筆」、それに「後醍醐天皇御眞筆」が同じ筆跡になっている。また書体も江戸時代後期の書家、巻菱湖(まきりょうこ)の影響を受けている文書が複数あり、文化文政(1804年〜1830年)より前に書かれたとは考えられない。

以上、これらは批判の一部であるが、こういった致命的な欠陥があるため、『竹内文献』は明治以降に創作された偽書の可能性が極めて高いとされている。
同時にそれは、『竹内文献』を最大の根拠しているモーゼの墓の伝説も怪しいことを意味している。

 

現地での調査

最大の根拠が怪しいとはいえ、モーゼの墓といわれる場所は実在している。そこで私は現地へ直接出向いて調査を行うことにした。(以下に掲載の写真はクリックすると拡大可能)

 

上の写真は、現在「伝説の森公園 モーゼパーク」として整備されている公園である。場所は宝達山のふもとにあり、モーゼの墓へは山道でつながっている。 実際に登ってみたが、下写真のようにある程度整備されているため、それほど険しい山道ではない。

 

途中には記帳所が設けられている。中をのぞくと「モーゼクラブ」という有志によるモーゼの墓の解説板(上写真右)があった。竹内文献を元に書かれたようである。

記帳所をあとにし、山道をさらに登っていくと、三ツ子塚を示す標識が見える。その案内に従って進んだ先にあるのが三ツ子塚の下に位置する広場だ。ここには町によって建てられたモーゼについての解説板がある。

   

読めば、三ツ子塚の正式名は「河原三ツ子塚古墳群」だという。モーゼの墓といわれているのは、全部で10ある古墳群のうち、2号墳であるようだ。場所を確認し、最後の山道を登る。すると、ついに目的の場所へたどり着いた。

 

上の写真が、モーゼの墓といわれる2号墳の上に立てられていた墓である。非常に質素なつくりで、思わず拍子抜けしてしまう。墓標をよく見ると、三ツ子塚下にあるモーゼの解説板とは違い、役所が公的につくったものではないことがわかる。

しかし、このモーゼの墓は古墳であり、石川県の埋蔵文化財になっているのではなかったか? この件について、私は石川県の教育委員会文化財課に問い合わせてみた。

その結果わかったのは、もともとこの三ツ子塚からは、はにわなどが出土し、山伏の修験道の通り道になっていたということだった。埋蔵文化財という話は、そういった歴史が考慮され、鑑査に通った結果の話だそうである。モーゼの墓だという話はまったく関係していなかったのだ。

 

人骨は発見されていない

埋蔵文化財の話は真相がわかったが、「平林」(へらいばし)という奇妙な地名や、GHQの調査によって人骨が発見されたという伝説の真相はどうだろうか。

まず「平林」(へらいばし)の方は、筆者が地元の方たちに話を聞いてみた。すると「平林」という地名は実在することがわかった。 ところが地名は実在するものの、肝心の読みは「へらいばし」ではなく、普通に「ひらばやし」と読むのだという。「へらいばし」などという読みは聞いたこともないそうだ。

それではGHQの調査の方はどうだろうか。この件については、そもそも極秘に調査が行われて発掘内容は一切不明だという話から、伝説で紹介した巨人の骨などが発掘されたという話まで、いくつかのバリエーションが存在する。骨の長さも75センチから90センチまであり、バラバラだ。

この時点で、すでに怪しさが漂うが、私は管理元である宝達志水町の生涯学習課に問い合わせて話を伺ってみた。その結果わかったのは次のとおりである。

  • 戦後のあるとき(おそらく昭和20年代)、アメリカ軍の兵士たちがモーゼの墓を調べるためにやってきたことは事実。
  • しかし、その兵士たちがGHQと関わりがあったのかは不明。また正規の調査だったのか、個人的なものだったのかも不明。
  • 兵士たちは、地元の人たちにアルバイト料を払って発掘に協力してもらった。
  • 発掘に協力したのは地元の青年団や公民館の職員(昭和一桁台生まれ)など。話を伺った生涯学習課の職員の方は、直接その人たちから生前に話を聞いている。
  • 発掘に使ったのは地元の人たちが用意した農業用の鍬など。実際に発掘されたのは錆びた鉄器類などで、人骨は出なかった。

以上である。 話を伺ってみて、アメリカ軍の兵士たちが発掘にやって来たことは事実であることがわかった。だがGHQによる正規の調査だったのか、それともただの個人的興味による発掘だったのかは不明である。

しかし兵士たちが地元の人たちにアルバイト料を払って発掘に協力してもらったり、発掘結果を隠したりしていなかったことは確かである。極秘などではなかったのだ。
また人骨は出なかったという話にも注目したい。「巨人の骨が発見された」という話はホラ話だったのである。

実際、私が確認したところでは、この話に限らず、人骨が三ツ子塚から発掘されたこと自体、これまでに一度もないとのことだった。

結局、伝説の多くは真相と異なることがわかった。けれども地元の人たちは、それほど本気でこのモーゼの墓伝説を信じているわけではないようである。筆者が話を伺った際も、伝説を強く主張するような方はほとんどおらず、快く取材に応じてくださる方ばかりだった。

むしろ竹内文献絡みで信じている外部の人たちの方が本気度は強いかもしれない。いずれにせよモーゼの墓とされる三ツ子塚古墳群は、現在、観光スポットとして整備されている。伝説は怪しくとも古墳であることは確かである。こういった話に興味を持っている方なら一度行かれてみる価値はあるだろう。


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(記事公開日:2009年9月30日)
(改訂版公開日:2012年1月13日)

【参考資料】

  • 竹内義宮『神代の万国史』(天津教総庁)
  • 大内義郷・校注『竹内文献資料集成 地之巻』(八幡書店)
  • 『狩野亨吉遺文集』(岩波書店)
  • 高木任之「能登半島の『モーゼ』の墓(その一)」『近代消防』(近代消防社・2003年11月号)
  • 高木任之「能登半島の『モーゼ』の墓(その三)」『近代消防』(近代消防社・2004年1月号)
  • 裏ネタJACK「驚嘆すべき日本の謎・世界の謎」
    (http://www.jitsuwa.com/text-6/no-5/index.html)
  • 「モーゼ583歳 能登に眠る? モーゼの墓(宝達志水町)」『中日新聞』(2010年11月6日付)
  • 宝達志水町「伝説の森公園(モーゼパーク)」
    (http://www.hodatsushimizu.jp/webapps/www/section/detail.jsp?id=100)