古代日本最高の知性が見通す未来「聖徳太子の予言」

伝説

日本の有名な偉人、聖徳太子には、一度に10人の話を聞く、一日で山を動かす、などの超能力めいた伝説が数多く伝わっている。

聖徳太子

聖徳太子の肖像画

なかでも注目すべきは、『日本書記』の巻第二十二に、「兼て未然(ゆくさきのこと)を知る」とあるように、その未来予知の力だ。聖徳太子が予知した内容は『未来記』『未然本紀』(みぜんほんぎ)という2冊の予言書にまとめられている。

『未来記』は、有名な『太平記』をはじめ各時代の書物などでたびたび言及がある。『未然本紀』も江戸時代に幕府による禁書処分を受けてしまったものの、その内容は高く評価されており、現代まで写本が伝わっている。

予言の的中率も非常に高い。鎌倉幕府の成立、蒙古襲来、南北朝の争乱、豊臣秀吉、徳川家康の天下統一、第二次世界大戦の勃発など、いくつもの予言が現実のものとなっているのだ。

しかし聖徳太子の予言はこれだけではない。次の予言をご覧頂きたい。

私の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかってない壮麗な都になり、戦乱を十回浴びてもそれを越えて栄え、一千年の間、遷都はないだろう。 だが一千年の時が満ちれば、黒龍が来るため、都は東に移される。(『聖徳太子「未来記」の秘予言』より引用)

これは太子が25歳の頃、宇治(現在の京都府)を旅した際に予言したものである。そこには、桓武天皇によって794年に平安京がつくられ、以降、1000年に渡り都として栄えることや、黒船の来航、東京への遷都などが見事に予言されている。

だがこの予言には続きがある。

それから二百年を過ぎた頃、こんどはクハンダが来るため、その東の都は親と七人の子のように分れるだろう。(同上)

ここでいう「クハンダ」とは、末世の時代に現れる悪鬼のことである。このクハンダにより、日本の大都市・東京は分裂の憂き目に遭うというのだ。クハンダの正体は、地球汚染、天変地異、疫病、核戦争、原発事故、富士山の噴火など、さまざまなものが考えられる。

その時期は、末世の時代、つまりお釈迦様が亡くなってから2500年後とする説が有力だ。没年は言い伝えにより、紀元前544年から紀元前483年まで幅はあるものの、運命の時は1956年から2017年までとする説が有力である。

しかし、すでに大部分は過ぎている。逆に言えば、聖徳太子が予言したクハンダの襲来は迫っているということだ。我々に残された時間は少ない。(以下、謎解きに続く)

謎解き

聖徳太子の予言では、その具体的な根拠として、『未来記』と『未然本紀』がよくあげられる。クハンダの予言も『未然本紀』に関連した書物が出典だ。ところが、この2つの予言書とされるものは、昔からその信憑性に大きな疑問が投げかけられてきた。

どういうことか、まずは『未来記』から見てみよう。

様々に変化する『未来記』

『未来記』の最大の特徴は、その登場の仕方から中身まで、時代や文献によって様々に変化する点にある。以下は、『未来記』について大まかにまとめた表である。

※スマホなどで閲覧の場合、以降の表は画面を横にすると、あまりはみ出さず読みやすい。

登場する書物、
または別名
発見したと
される場所
予言内容 成立年代
四天王寺御手印縁起(してんのうじごしゅいんえんぎ) 四天王寺金堂の六重塔 聖徳太子の死後500年に内乱勃発。 1000~
1100年頃
 太子御記文
(たいしごきぶん)
 河内国(現在の大阪東部)の聖徳太子墓近くの地中  太子入滅後の仏法の興隆、入滅後430年ほどで御記文の発見、そのあかつきに寺塔の建立。  1050年頃
明月記
(めいげつき)
聖徳太子墓
近くの地中
承久の乱(1221年)の勃発、1227年以降に猿と犬の化け物が空から襲ってくる。 1227年頃
吉口伝
(きっくでん)
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿、吉田隆長が兄・定房の日記をまとめたもの 次の4点の未来記があると紹介。
(1)藤原家倫所持本『聖徳太子未来記』50巻
(2)南都唐招提寺本『太子勘未来記』
(3)東大寺宝蔵朱塗箱中の八寸鏡裏銘文
(4)陸奥太子記
さらに、これらから引用するかたちで、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の予言
を紹介。
1332年頃
聖徳太子瑪瑙記文(しょうとくたいしめのうきぶん)   蒙古襲来 1345年頃
太平記 四天王寺 後醍醐天皇の挙兵、隠岐の島への配流、鎌倉幕府倒幕、足利尊氏の裏切り、天皇の天下。 1368~
1375年頃
日本国未来記 四天王寺 仏教の一遍、日蓮、親鸞を
「悪魔」として批難。
1648年頃

このように、ひとくちに『未来記』といっても様々なものがある。これらは一冊の共通する書物ではない。場合によっては石に刻まれていたり、土の中から出てきたり、バラエティに富んでいる。

予言は聖徳太子作という設定になっているものの、成立年代を見ていただければわかるとおり、いずれも太子の死後数百年以上経ってから作られたものばかりだ。太子の作と認められているものは残念ながらひとつもない。

予言の内容も、その多くは出来事が起きたあとに書かれたものである。“発見”された当時から見て過去の出来事はよく当たっているものの、未来の出来事は外れてしまう、というのがひとつのパターンだ。また発見者や関係者にとって都合の良い内容が書かれている場合もある。

つまり『未来記』とは、変幻自在にその姿や内容を変え、時には関係者の願望を反映し、利用できる便利な存在でもあったのだ。「聖徳太子のような偉人が予言というかたちで保証しているんですよ」というわけだ。

その根底に流れるのは、聖徳太子という古代日本のビッグネームの名声にすがりたいという、ある意味で人間らしい思いなのかもしれない。

『未然本紀』の真相

続いては、聖徳太子のもうひとつの予言書として有名な『未然本紀』について。これはもともと、全72巻におよぶ『先代旧事本紀大成経』(せんだいくじほんぎたいせいきょう、以下『大成経』)の69巻目にあたる書物である。

こちらは『未来記』と違い、書物としてまとまっている。『大成経』が世に初めて出たのは、江戸時代の延宝3年(1675年)から延宝7年(1679年)頃のこと。上野国(現在の群馬県)館林の広済寺の僧、潮音道海(ちょうおんどうかい)らが版元にもちこみ、戸嶋惣兵衛(とじまそうべえ)によって刊行された。

しかし、その信憑性については、当時から矛盾のある地名や俗語の混入などが見られたため疑問が投げかけられていた。現在では研究者たちの間でも研究が進み、江戸時代に書かれた偽書ということで一致をみている。もちろん、その『大成経』の一角をなす『未然本紀』も偽書ということになる。

もともと『未然本紀』は、聖徳太子が亡くなった622年から1000年後の1621年までを予言した書という触れ込みだった。その内容は、以下のように「初百歳」から「第十百歳」まで、各100年ごとに10の章を並べることで1000年分の予言をするという構成になっている。

初百歳 622~721年
次百歳 722~821年
第三百歳 822~921年
第四百歳 922~1021年
第五百歳 1022~1121年
第六百歳 1122年~1221年
第七百歳 1222年~1321年
第八百歳 1322年~1421年
第九百歳 1422年~1521年
第十百歳 1522年~1621年

このため『大成経』が刊行された1679年の時点では、すでに『未然本紀』に書かれている予言は過去の出来事になっていた。よって江戸時代以前の出来事が的中していても驚くにはあたらない。

一方で、『未然本紀』には江戸時代以降の予言もあると主張する人たちもいる。
ところが、もともと1000年分しか書かれていないものを、さらにのばすとなると大変だ。実は各章の予言は10行ほどしかなく、それほど長くはないからだ。

そのため、すでに江戸時代以前の予言として解釈されているものを、江戸時代以降の予言として解釈し直す、という無理矢理なやり方が出てくる。

その結果が、たとえば「第八百歳」(1322~1421年)に書かれる「父祖先逆積於天際 子孫今逆致乎家亡」(先祖の過ちが積もって、子孫が今家を滅ぼす)という鎌倉幕府滅亡の予言とされるものを、第二次世界大戦の予言として再解釈するものだ。

また他にも第三次世界大戦勃発と人類滅亡の予言とされるものもあるが、もとは第八百歳にある南北朝にまつわる予言と、第六百歳にある地頭の横暴から承久の乱へと至る流れの中で出てくる予言を再利用&再解釈したものである。

こうしたことが可能なのは、『未然本紀』自体に曖昧な表現が多いからでもある。曖昧であることで解釈の幅が広がり、予言を解釈する側はいくらでも出来事を当てはめることができるのだ。

クハンダの予言

さて、最後は【伝説】で紹介したクハンダの予言を検証しておきたい。もともと、この予言は、五島勉氏の『聖徳太子「未来記」の秘予言』という本で紹介されていた。

同書によれば、出典は『大成経』や、聖徳太子研究家の白石重氏の著書『聖徳太子』などだという。『大成経』が偽書であることはすでに述べたとおり。白石氏の著書も『大成経』の現代語訳であり、内容は基本的に同じだ。

しかし、ここで引っ掛かるのは、クハンダの予言の前半にある「一千年の時が満ちれば、黒龍が来るため、都は東に移される」という部分だ。『大成経』は江戸時代前期に作られたとされている。なぜ幕末の出来事がわかったのだろうか? もしこの予言が本当なら、すごいことではないだろうか?

そう考えて、私は『大成経』と白石氏の著書を確認してみることにした。聖徳太子が宇治で予言したという設定になっているのは、『大成経』のうち、第37巻にあたる『聖皇本紀』での記述で、以下がその予言だ。

「二百歳後、有一聖皇、再遷成都」
(二百歳の後、一人の聖皇があって、ここに遷って都を造るだろう)

一方、【伝説】で紹介される予言は次のものだった。

「私の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかってない壮麗な都になり、戦乱を十回浴びてもそれを越えて栄え、一千年の間、遷都はないだろう。 だが一千年の時が満ちれば、黒龍が来るため、都は東に移される」

「それから二百年を過ぎた頃、こんどはクハンダが来るため、その東の都は親と七人の子のように分れるだろう」

比べてみれば一目瞭然のように、一致するのは最初の一文だけだ。その後に続く予言は、出典としてあげられていた『大成経』や『聖徳太子』には書かれていない。

最初の予言は『大成経』刊行当時からみて過去の出来事である。そのため、この予言は当然当たっている。ところが、そこから後の予言については、当時から見て未来の出来事が含まれているものの、原典では存在自体が確認できなかった。

つまり一見すごいように見えるクハンダの予言は、その大部分が存在自体、大変怪しいものだったのである。おそらく五島氏の創作だったのではないだろうか。氏がかつて執筆された『ノストラダムスの大予言』と同じようなものである。

【参考資料】

  • 「聖徳太子の秘伝書『未然本紀』の警告」『ボーダーランド』(1997年、7月号)
  • 五島勉『聖徳太子「未来記」の秘予言』(青春出版社)
  • 白石重『聖徳太子』(動向社)
  • 舎人親王 編[他]『日本書紀30巻』(国立国会図書館所蔵)
  • 出口常順、平岡定海・編『仏教教育宝典2 聖徳太子・南都仏教集』(玉川大学出版部)
  • 源顕兼『古事談』(国立国会図書館所蔵)
  • 藤原定家『明月記 徳大寺家本 第5巻』(ゆまに書房)
  • 『太平記 巻六』(国立国会図書館所蔵)
  • 吉田幸一・編『天文雑説』(古典文庫)
  • 和田英松「聖徳太子未来記の研究」『国史国文之研究』(雄山閣)
  • 小笠原春夫「未来記と未然本紀」『神道宗教』(神道宗教学会、通号168・169)
  • 『別冊歴史読本 特別増刊6 予言されたハルマゲドン』(新人物往来社、第二十巻二十八号)
  • 山口哲史「平安後期の聖徳太子墓と四天王寺」『史泉』(関西大学史学・地理学会、109号)
  • 小峰和明『中世日本の予言書』(岩波書店)
  • 永積安明・他『太平記の世界』(日本放送出版協会)
  • 北原保雄・編『全訳古語例解辞典 第二版』(小学館)
  • 小笠原春夫・校注『続神道大系 論説編 先代旧事本紀大成経 (一)~(四)』(神道大系編纂会)
  • 河野省三『旧事大成経に関する研究』(芸苑社)
  • 『別冊歴史読本 徹底検証 古史古伝と偽書の謎』(第二十九巻九号、新人物往来社)
  • 岩田貞雄「皇大神宮別宮伊雑宮謀計事件の真相」『國學院大學日本文化研究所紀要』(國學院大學日本文化研究所、第33輯所収)
  • 久保田収「『旧事大成経』成立に関する一考察」(『皇学館大学紀要』皇学館大学、第6輯所収)
  • 今田洋三『江戸の禁書』(吉川弘文館)
  • ASIOS『検証 陰謀論はどこまで真実か』(文芸社)
  • 石田尚豊・編集代表『聖徳太子事典』(柏書房)
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