自己紹介


このページでは、管理人の自己紹介や考えを少し書いています。

【名前】本城達也
【略歴】2005年2月よりWebサイト「超常現象の謎解き」を運営。
2007年には超常現象を懐疑的に調査する団体「ASIOS」を設立。

超常現象の懐疑的調査がライフワーク。


昔は超常現象ビリーバー(信奉者)

こういった懐疑系のサイトを運営していると昔から超常現象には懐疑的だったと思われがちですが、昔はよく超常現象を信じていました。いわゆるビリーバー(肯定派)です。特にハマっていたのは超古代文明やオーパーツですね。


懐疑論者の存在を知ったキッカケ

20歳の頃に読んだ、カール・セーガン 科学と悪霊を語る(新潮社)という本がキッカケで懐疑論者という存在を知りました。当時、オーパーツや超古代文明にハマっていた私が夢中で読んでいた、前川光さんの『人類は二度生まれた』((大日本図書)という本の中でカール・セーガンが肯定的に紹介されていて、興味を持った私は彼の本を探して読んでみたのです。

そうしたら、これが凄く面白い。気づいた頃には彼の著書をほとんど読み尽くし、最後に残ったのが上記の『カール・セーガン科学と悪霊を語る』でした。

この本はそれまでの本と違い、超常現象に関する話題を多く扱っており、著者のセーガン自身も懐疑論者としての面を強く出していました。 もちろん当時の私は、
懐疑 ( かいぎ ) という言葉も知らなければ、 懐疑論者 ( かいぎろんしゃ ) という存在も知りませんでしたので、この本を読んで初めてそれらを知りました。


ビリーバーから懐疑論者へ

『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』を読んでみると、そこには私が全く知らなかったことが数多く書かれていました。懐疑することの重要性や、懐疑論者のジェイムズ・ランディの活躍、超常現象の懐疑的調査団体「CSICOP」(サイコップ)の存在や、その設立の経緯。

これらのことを知った私は、超常現象の本物を見つけるには「肯定」でもなく「否定」でもなく、「懐疑」こそが一番ベストなスタンスなのではないか? と考えるようになりました。

ろくな懐疑精神も持たずに、あれもこれも本物だと安直に判断していたのでは、どれがニセモノで、どれが本物なのか区別がつきません。かといって、ろくな調査もせずに、頭ごなしに「あるわけない」と決め付けていたのでは、本物があったときにその存在に気づきません。

しかし、「本物だ!」とか「あるわけない!」といった結論はとりあえず置いておき、まずは懐疑的に注意深く調査していくスタンスをとれば、嘘やイカサマがあった場合にその多くを見破れます。また調査した結果、嘘やイカサマの可能性が低く、話に信憑性があれば―つまり本物の可能性がある事例が見つかった場合、その存在に気づくことができます。

このように考えた私は、それまでろくな懐疑精神も持たず、軽信する傾向を持っていたビリーバーから、懐疑論者を目指すようになりました。


真相を知る

転向を決めてからは、それまでのビリーバー的な考え方から脱却するため、懐疑的な本も多く読むようになりました。もちろん、これらの本では私が信じていたことが次々に覆されていきます。しかしそれは新しい情報との出会いでもありますから、不快に感じることはありませんでした。


超常現象やオカルトが大好き

当サイトではオカルトに批判的なことも書いてますが、決してオカルトを撲滅しようなどとは思っていません。もちろん嫌いでもありません。(←ここ重要です)

私にとって、超常現象やオカルトは最も関心のあることであり、常に関わりを持っていたいと思っています。たとえ批判的なことを書いていても、超常現象や
オカルトは大好き
なんです。嫌いだったら、肯定的な本や雑誌をたくさん読んだりしません。手間をかけて調査したりもしません。

本当に好きで興味を持っているからこそ、安直に「本物」だと認定されることには納得がいかないし、イカサマ師が平然とホラを吹き、一部の肯定派から革命的であるかのように賞賛されているのを見ると、それは違うと思うわけです。

話を捏造することが夢のあることでしょうか? 読者が気づくわけないとナメきって平然と嘘情報を流すことがロマンのあることでしょうか? 何十年も前からある手垢にまみれたネタを使いまわすことが革命的なことでしょうか? どんなに論破され、明確な証拠を前にしても、その証拠や情報から逃げて無視することは、開明的で心の広い人間がすることでしょうか?

超常現象が大好きな私にとって、これらの問いに対する答えは全部ノーです。


行動する懐疑論者へ

海外も含めて私がここまで書いてきたようなタイプの懐疑論者に対しては、「もっともなことを言ってても建前ばかりで、行動が伴わない」などと言われることがあるようです。たとえば、本物探しといいながら未解明の事件を調べようとしなかったり、調査結果に誤りがあってもそれを認めようとしなかったりすることです。

しかし私は、実際に行動する懐疑論者でありたいと思っています。そのため、「未解明ファイル」のページも作りました。また慎重に調査しても時には間違えることもありますが、そのときは潔く誤りを認め、修正するように心がけています。