細木数子


「現在、日本で最も有名な占い師は誰か?」と言えば、それはおそらく細木数子だろう。テレビのレギュラー出演に加え、毎年出版している占い本はどれもベストセラーである。さらに、これまでに出版した本の総販売部数は5300万部を数え、「世界一占いの本を売った」として、ギネスブックにも掲載されている。

また「六星占術」は、長年にわたり研究を行った結果、細木数子が独自に編み出したものだというし、彼女は、陽明学の大家、故・安岡正篤(やすおかまさひろ)氏の弟子でもあるという。

しかし、そんな細木数子のことも、その生い立ちや過去の話となると一般にはあまり知られていない。そこでこのページでは、過去のインタビューや自伝、取材記事などを参考にしながら、その実像を追ってみたいと思う。

 

生い立ちから実業家時代

細木数子は昭和13年4月4日、東京都渋谷区の円山町に、8人兄妹(三男五女)の四女として生まれた。小学一年のころに父を亡くし、経営していたバー「ロマンスクラブ」(後に「南海」→「千代」と改名)を、「娘茶屋」というおでん屋に替えて、母親と女姉妹5人で営む。細木数子も13歳のころから店の手伝いをしていたという。

成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)に通っていた16歳のころにはミス渋谷に選出。店の常連客がタバコを買うと付いてきた投票券を使って投票してくれたらしい。

17歳になると高校を中退し、店の手伝いと客のチップを貯めていた金をもとに、喫茶店「ポニー」を開店する。しかしわずか半年で売却。

その資金をもとに、1957年には新橋駅近くにクラブ「潤」をオープン。翌年には売却し、成城学園駅前に、子ども洋服店「バンビーノ」を開店。さらに翌1959年には、銀座にバー「かずさ」をオープン。同じ年、静岡の老舗の一人息子と結婚する。(後に離婚)

この1957年〜59年の3年間は、細木数子にとって大殺界の期間だった。この大殺界の過ごし方について現在の細木数子は、「新しくことを始めるのはタブーであり、事業はもちろん結婚も絶対にしてはダメ」というようなことを言っている。

しかし結婚こそ長くは続かなかったものの、事業のほうは成功している。これは後の大殺界にも当てはまることだ。

1961年になると、銀座にバー「だりあ」をオープン。「かずさ」はクラブに。64年には、赤坂にディスコ「大使館」をオープン。翌65年には世田谷に自宅を新築。
1970年には赤坂にクラブ「艶歌」を開店。絶頂期を迎えるも、同じ年に10億円の詐欺に引っ掛かり、自宅も店も抵当に取られる。

細木数子が占いに興味を持ち始めたのは、この人生のドン底の時期である。赤坂の豊川稲荷で、占い師にみてもらったのがキッカケだという。しかし本人が「占いで人生は変わらない」と言っているとおり、このドン底から救ってくれたのは占いではなかった。彼女を救ったのは、自身の天才的な商才だったのだ。

1972年に債権者を説得して再開した、赤坂のクラブ「艶歌」は大繁盛し、75年には借金をほぼ完済する。そして、同年にディスコ「マンハッタン」をオープンし、ここでも大儲け。『文藝春秋』2004年11月号のインタビューでは、このときの儲けぶりについて、細木は次のように語っている。

「ザックザックと金が入った(笑)」
「(中略)どのくらいすごいかというのは、もう税金ノーパスだから言うんだけど、ポリエチレンの大きなゴミ袋に金をザックザク入れて足で押し込んでも溢れるくらい」


「10億円の詐欺に引っかかった」という話は、よく苦労話として細木数子本人が語っている話だが、実はその借金自体はわずか数年で完済してしまい、その後は以前と変わらず儲けていたのである。

1977年になると、細木数子は、当時数億円の借金を背負っていた島倉千代子の後見人となる。しかし、なぜ細木と島倉は結びついたのか。それには、暴力団「二率会」の元相談役だった堀尾という人物が関係している。細木は堀尾との関係を、「夫婦以上、親子以上」だと語っている。2人の関係を否定したことは一度もない。

細木によれば、77年に債権者に追われて島倉が泣きついたのが、堀尾の知人だったという。この知人から相談を受けた堀尾が、自らを担保に1億5000万を作って債権者に返済した。

そして島倉の興行権を手に入れた堀尾と細木は、芸能プロダクション「ミュージック・オフィス」を設立。細木数子は「光星龍」という名前で社長に就任する。島倉は、毎月数百万円ずつ返済することになった。

当時の島倉のギャラを考えれば、借金は1年〜2年ほどもあれば完済できるはずだったらしいが、なぜか完済まで3年近くを要した。そして、長く続く返済生活に嫌気がさしたのか、島倉は知人の助けを借り、1981年に「コロムビア」(現・コロムビア ソングス)に移籍する。

ちなみにこの独立問題に関しては、細木数子は面白いコメントをしている。

当初、独立に関しては細木の方から勧めたという話だった。『週刊平凡』(1980年5月8日号)の記事では、「光星龍」という名前で細木は取材に答えている。

「5月1日から島倉千代子は『ミュージック・オフィス』を離れて独立します」
細木が自ら作った挨拶状にはこう書かれていたという。それを見た島倉千代子は、「私に何の相談もなく、どうして勝手に決めたんですか? 私は独立したくなんかないわ」と詰め寄ったそうだが、細木は「だって3年前のあなたの破産事件のとき、将来この問題が解決したら独立すると約束したじゃないの」と答えたという。

ここで彼女が演じているのは、「独立を拒む人気歌手に、心を鬼にして独立を勧める大恩人」という役である。ところが『週刊現代』(2005年3月5日号)の取材では次のように答えている。

「冗談じゃないわよ。(中略)借金を返し終わったとたん、お千代(島倉千代子)は出て行っちゃった。それっきり音沙汰もなし。助けてくれた堀尾のお墓には線香の一本もなし」


独立を勧めたのは細木自身ではなかったのか? 文句を言っている暇があるのなら、自らが語った美談を思い出すべきだろう。

また島倉千代子が、当初は「大恩人」とまで言い慕っていた細木について、一切語らなくなった理由についても考えを巡らせるべきだろう。

当初、島倉が抱えていた負債は「4億3000万円」で、それを債権者側に三分の一の「1億5000万」で納得させた、というのが初めの話だった。ところがこの後、借金の額がころころ変わっていくのである。

まず『週刊平凡』(1980年5月8日号、もしくは1979年9月6日号)の記事では、細木は取材に対し「16億円」あった借金を、「6億円」にしてやったのだという話に替えていた。(『細木数子地獄への道』鹿砦社による)

しかし、1982年に出した初の占い本『六星占術による運命の読み方』(ごま書房)では、「4億数千万」の負債だと書き、1988年に出版された『女の履歴書』(廣済堂)では、後に判明した金額は「13億円」で、それを三分の一の4億3000万円で債権者に納得させたという話に替わっていた。

さらに『週刊現代』(2005年3月5日号)の取材に対しては、「12億円」だった負債を「2億4000万」で債権者に納得させたと言っている。

どれも細木本人が語った金額だ。なのに、この金額のバラつきは何なのだろうか。

 

占い師としてデビュー、そして安岡氏との関係

ここまでの細木数子は、現在のような「占い師」ではなかった。彼女が占い師としてデビューするのは、島倉との騒動から2年後、1982年のことである。

この年に、彼女にとって初の占い本『六星占術による運命の読み方』(ごま書房)を出版する。しかし、これは当初から計画されていたことではなかった。

『文藝春秋』(2004年11月号)の中で細木数子の対談が載っているが、それによれば「銀座や赤坂で一世を風靡した女の半世紀として書かれた原稿を、ごま書房の社長が占い本として書き直すよう助言」した結果、あの本が生まれたという。

1983年になると、細木数子が「先生」と呼ぶ、故・安岡正篤氏と出会う。著書でも必ずと言っていいほど名前を出し、安岡氏の「弟子だった」などとも言われれば、いかにも長い付き合いがあったのだと思うだろう。

しかし、彼女が安岡氏に初めて会ったのは1983年3月。そして氏が亡くなったのは同じ年の12月である。その間わずか9ヶ月。しかも安岡氏は、10月に病気の療養のため高野山に移されている。つまり2人が一緒だった期間は、実質7ヶ月しかなかったということだ。決して長い付き合いがあったわけではないのである。

以下では、この期間についてさらに詳しく見てみよう。


3月中旬〜
8月末頃
安岡、細木の自宅および細木の経営する赤坂のフランス料理店「マンハッタン」にしばしば通いつめる。
(「マンハッタン」は当初クラブだったが、このころにはフランス料理店に替わっていた)
8月29日 安岡が「結婚誓約書」を書き、捺印する。
9月6日 安岡、体調不良を訴える。この頃から、安岡家側は細木との接触を避け始める。
10月4日 安岡、家族および師友会側の計らいで、実兄の高野山大僧正・堀田真快のもとへ移される。
10月25日 細木、「結婚誓約書」をもとに文京区役所に「婚姻届」を提出、受理される。
同じ日、安岡家側も同区役所に「婚姻届不受理」の手続きを行なおうとしたが、細木の正式住所確認に手間どり、10分間の差で不受理となる。
11月9日 細木、安岡家に「婚姻通知」を内容証明付きで郵送し、安岡の居所を明らかにするよう要求。
11月16日 細木、東京地裁に「人身保護の請求」の申し立てを行う。
11月18日 安岡家側、東京地裁に「婚姻無効」の調停申し立てを行う。
11月29日 細木の「人身保護の請求」にもとづく東京地裁の第一回審理において、安岡の居場所が大阪・中之島の住友病院と判明。
12月7日 細木、住友病院にマスコミと共に押しかけ、安岡との面会を要求。
12月13日 安岡正篤死去。享年85歳。

(『昭和虚人伝』(文藝春秋)、『細木数子 地獄への道』(鹿砦社)を参考)


ここで注目すべきは、8月29日に安岡氏本人が署名、捺印したという「結婚誓約書」(※注1)である。

【※注1】 結婚誓約書の存在については、『週刊文春』2006年6月22号の中で、細木数子本人がインタビューに答える形で実在したことを認めている。(写真付き)

常識で考えてほしい。普通「結婚誓約書」などわざわざ書くだろうか?
もちろん書いたりなどしないだろう。本当に相手のことを信頼しているなら、誓約書など不要である。

にもかかわらず、2人の間ではなぜこんな誓約書が交わされたのか。
それは細木数子が自著で再三にわたり「陽明学の大家」として安岡氏の名前を出し、ハクづけに利用していることからもわかるように、「安岡正篤」というビッグネームの妻になることは自らの格をあげる良いチャンスであり、絶対に逃すことはできないと判断したからではないだろうか。


このときの細木数子は、とにかくなりふり構ってなどいなかった。結婚誓約書では、翌年の4月に籍を入れると書かれているにもかかわらず、それを無視して半年も前の10月に婚姻届を提出したのである。

そして11月9日には、「婚姻通知」を内容証明付きで安岡家に送りつけた。
これに驚いたのは安岡家側だ。すぐに安岡氏本人に確認を取ると、2日後の11月11日、細木数子に反論の手紙を内容証明付きで送り返した。

「同先生に確認を求めたところ、先生は婚姻届が提出された当時も現在も、旧姓細木数子様と婚姻する意思は全くないとの御返事でした。なお、同時に同無効確認の法的手段を準備中です。したがって(中略)安岡正篤先生の妻として認めるわけには参りません」  (『週刊文春』1983年12月22日・29日合併号より)


当時の安岡氏は、同じ内容の電話を10分間に2度かけるなど、痴呆の兆候があったという。住友病院で行われた検査でも、全部で7つ見つかった症状のうちの1つに「老人性痴呆症」が挙げられていた。(上記『週刊文春』の記事による)

だが細木数子はこれに反論する。

「先生はボケてなんかいません。わざとボケたフリをして隠遁生活をしていただけです。お年を召されて、自分の話を本当にわかってもらえる同年代の人をいなくなったし、若い弟子たちを相手に話すのも煩わしかっただけのこと。弟子は先生に相手にされなかったものだから、私に嫉妬して色々いうのよ。先生がボケていなかったことは、近未来に必ず証明してみせます」 (『週刊文春』1999年9月16日号)


この発言からすでに6年近く経っているが、いまだに彼女のいう「証明」とやらはされていない。一体いつになったら証明してくれるのだろう。

やはり、「六星占術のもとになるものは中国に4000年以上前からあった」と豪語していながら、いまだにその証拠を示せない細木数子のことだ。期待するだけ無駄なのかもしれない。(ちなみに「ボケたフリをしていた」と自ら語ることで、そういう兆候が客観的に見られたことを自ら認めてしまっている点に注目しよう)

 

財団法人

細木数子と安岡家の間で起きた泥沼の訴訟合戦の結果、細木が籍を抜くことで一応の決着を見ることになった。

しかし彼女は損をしたわけではない。この一連の騒動ではマスコミを上手く利用し、知名度を高めることに成功している。また今でこそ安岡氏と「結婚していた」とはほとんど言わなくなったが、「安岡正篤」という名前は現在でも大いに利用している。

上でも触れたとおり、著書では必ずと言っていいほど名前を出しているし、自らのプロフィールでも「陽明学の大家、故・安岡正篤氏と出会い、六星占術は単なる占いの域を越えた“人間学”にまで高められた」と、もっともらしいことを書いている。

また東京にある事務所に、「財団法人 安岡正篤顕彰記念」という存在しない財団法人の名前を看板に掲げ、ハクづけに利用していたこともある。

これに対し細木数子は、前出の『週刊文春』(1999年9月16日号)の取材に対し、次のように答えている。

「96年に、厚生省に設立申請書を出したの。でも、何やかんやと手間がかかるので、結局作らなかったのよ。今の事務所の立ち上げの時には、作るつもりだったからああいう看板にしたんだけど、わざわざ消すのに30万円もかかるというので、結局そのままにしてあるのよ。でも、あなたに指摘されたから消すしかないわ」


一回の鑑定で、10万円以上の料金を取っている細木数子にとって、30万円という金額が高いのかどうか激しく疑問に思うところだが、このときはまだ言い訳があった。

しかし2004年11月と2005年4月、そして2009年12月の3回、私は神楽坂の5丁目にある細木事務所(月に一回開く「勉強会」専用の事務所)に、現在でもこの財団法人をハクづけに利用しているのか、確認をしに行ってみた。

すると、現在は表に看板こそなかったものの(窓には「六星占術 細木数子事務所」と書いてある)、一階の案内板には、「財団法人 安岡正篤顕彰記念 細木数子事務所」と現在でも書かれていたのだ。


事務所に掲げている看板

【※注2】 この財団法人が実在するのか、また休眠状態ではなく、実際に活動しているのかを知るには、「公益法人等の検索」、もしくは「特例民法法人の検索」のページで検索すればわかる。

 

人に嫌われないための五箇条

このページの最後は、安岡氏の人間学に関する言葉を、細木数子が活かせているのかを見て終わりとしよう。

<人に嫌われないための五箇条>

1. 初対面に無心で接すること。

初対面の相手によって、態度が大きく替わるのはテレビをご覧になってる方には周知の事実だろう。特に女性や特定のタレントに対しては、とても無心で接しているようには思えない。

2. 批評癖を直し、悪口屋にならぬこと

具体例を挙げるまでもないだろう。

3. 努めて、人の美点・良所を見ること

口から出てくるのはダメ出しのオンパレードである。たまに人の良所を言うこともあるが、ほとんどは人の不安感を煽る言葉ばかり。

4. 世の中に隠れて案外善いことが行われているのに平生注意すること

著書では、祟りや大殺界の不幸話など読者の不安感を煽るのに必死。世の中に隠れて善いことが行われている事例など探せばいくらでもあるのだから、不安を煽るだけでなく、こういった事例もたくさん載せるべきではないか。

5. 好悪を問わず、人に誠を尽くすこと

保坂尚輝のときは、反論されて逆ギレ。最後は怒りが収まらず「地獄へ堕ちる! 断言する!」と捨てゼリフ。自分の好悪によって態度がよく替わる。


この五箇条は、安岡氏本人の著書『運命を創る・人間学講話』(プレジデント社)に載っている。細木数子も「人間学」などと口先だけで言うのではなく、ぜひ自ら行動に移し、模範を示してほしいものだと思う。


【参考資料】

  • あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝 佐野眞一 (文藝春秋)
  • 『六星占術 宿命大殺界』 細木数子 (日本文芸社)
  • 『女の履歴書』 細木数子 (廣済堂)
  • 『細木数子 地獄への道』 細木数子被害者の会 (鹿砦社)
  • 『文藝春秋』 2004年11月号 (文藝春秋)
  • 『週刊文春』 1999年9月16日号 (文藝春秋)
  • 『週刊文春』 2006年6月22号 (文藝春秋)
  • 『週刊現代』 2005年3月5日号 (講談社)
  • 『平成16年度版 六星占術による土星人の運命』 細木数子 (KKベストセラーズ)
  • 『六星占術による運命の読み方』 細木数子 (ごま書房)
  • 細木数子―魔女の履歴書 溝口敦 (講談社)
  • 『運命を創る・人間学講話』 安岡正篤 (プレジデント社)