
今から約1万2000年以上前、太平洋に現代文明をはるかに凌ぐ超古代文明が存在した。その名は「ムー」。この超古代文明のあった大陸はムー大陸と呼ばれている。
大陸の大きさは、東西8000キロ、南北5000キロ。人口は6400万人を数え、異なる10種類の民族が住み、宇宙創造神の地上代理人である帝王 「ラ・ムー」が大陸を統治。国民は極めて高度なな学問と文化を持ち、特に建築と航海の術にすぐれていた。そして太陽の象徴を旗印に、世界をその勢力下に置いた大帝国ムーの繁栄は揺るぎなく、国民は幸福に酔いしれていた。
ところが今から約1万2000年前、地下のガス・ベルトの爆発により、この超古代文明は突然、一夜で海中に没してしまったのである。
超古代文明の中では、お馴染みのムー大陸伝説。この「ムー」の名が初めて歴史に登場したのは、今から140年ほど前のことである。
フランスのシャルル・ブラッスールという神父が、マヤの占星術書『トロアノ古写本』を独自に“解読”したのがキッカケだった。さらにフランスのピラミッド神秘学者オーギュスト・ル・プロンジョンも同様の“解読”をしている。
また1912年には、チベットの都ラサの仏教寺院にある古写本『ラサ記録』にも、ムーの話が登場すると言われた。
しかしこの時点では、ムーは太平洋にあるのではなく、大西洋にあるとされているアトランティス大陸の別名だとされていた。
それを太平洋に持ってきて、現在私たちが知っている「ムー大陸」としてまとめたのが、イギリスの元陸軍大佐を自称するジェームズ・チャーチワードである。
以下では時計の針を140年ほど前に戻し、「ムー」の名が初めて歴史に登場した際の詳しい真相から順番に見ていくことにしよう。
【写真引用元】
『ボーダーランド』(ハルキ・コミュニケーション)1996年9月号.P18
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1864年、フランスの神父シャルル・ブラッスールは、スペインのマドリッド王立歴史学会で、ディエゴ・デ・ランダという司教が書いた『ユカタン事物記』の抄録を発見した。
この抄録には、マヤ文字をアルファベットに変換した、「マヤ・アルファベット」といわれるものが載っている。
マヤ文字解読の手がかりを手に入れたと思ったブラッスールは、早速このアルファベットを使い、「失われた大陸」の記録が書かれていると彼が信じていた『トロアノ古写本』から、その大陸の記録を“解読”し始めた。
解読が進んでいくと、彼はある一対のシンボルの存在に気づく。下にそのシンボルを掲載するので実際に見比べてみよう。
ブラッスールによれば、左のシンボルは「マヤ・アルファベット」の「M」に似ているという。そして右のシンボルは、「U」に似ている・・・
するとブラッスールは驚くべき飛躍的結論を下した。この2つのシンボルは、失われた大陸の名を表しているに違いない・・・。
その大陸の名は、「M+U」、つまりムー(MU)である。(同様の“解読”は、1886年にフランスのピラミッド神秘学者オーギュスト・ル・プロンジョンも行っている)
これが今日まで伝説として語り継がれることになる「“ムー”大陸」の名前が誕生した経緯である。
しかし話はこれで終わりではない。実は続きがある。ブラッスールが“解読”に利用した、ランダの「マヤ・アルファベット」が、後の調査で実はまったく使い物にならないことが判明したのだ。(つまり勘違いだったということ)
さらに後に完全ではないもののマヤ文字の解読研究が進むと、ブラッスールが「失われた大陸の記録」だと思い込んでいた『トロアノ古写本』が、実際は単なる占星術の本であることも判明したのである。
なお1912年にチベットの都ラサの仏教寺院にある古写本『ラサ記録』にもムーの記録があると言われたが、後にこの話は捏造であることがバレている。
【写真引用元】
『Lost Continents』 L. Sprague De Camp (Dover Pubns) P.33. 36
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ここまでは、ジェームズ・チャーチワードが登場する以前の伝説の真相について見てきた。実は彼より前の時代では、「ムー大陸」は、大西洋にあると言われた「アトランティス大陸」の別名とされていた。
これを太平洋に持ってきて、アトランティスとは別の超古代文明「ムー」だと主張したのがチャーチワードである。彼によれば、インドの英国駐留軍に従軍していたときに、現地の寺院の高僧が「門外不出の秘密の粘土板」を見せてくれたという。
そしてその粘土板は、ムー大陸の歴史を著した『聖なる霊感の書』の抜粋にあたるものだというのだ。
しかし、この話にはどの程度信憑性があるのだろうか?
まず、チャーチワードと英国陸軍に関する事実関係について、以下の3点を探ってみよう。
1. 英国陸軍に所属。
2. 1868年にインド駐留軍に配属された。
3. 1880年に陸軍大佐として退役。インドを離れる。
まずは一番目から。チャーチワードの素性については、『ボーダーランド』1996年9月号にて詳しい調査が行われているので、そちらを参考に真相を紹介する。
調査によれば、英国陸軍記録センター、英国公文書館、ケンブリッジ大学、英国作家クラブ、英国作家協会など、公式記録を保存している機関に軒並み問い合わせてみたものの、チャーチワードに該当する人物は見つからなかったという。
しかし唯一、大英図書館の一部門で、東洋に関しての資料を保存しているオリエンタル・インディア・コレクションに問い合わせたところ、チャーチワードという名が2件(「Churchward, W. S.」と「Churchward, P. R. S.」)あることがわかった。
名前の頭文字が合ってないので、別人だろうということは容易に推測がつくが、念のためこの2人の経歴を確認してみると・・・
1人目は1875年に配属(駐留)で1881年に離れる。もう1人は1880年配属。どちらもチャーチワードが主張している経歴と一致しない。
さらに彼は当時「大佐」だったと自称していたが、この2人は共に「中尉」。ジェームズ・チャーチワードとはまったくの別人であることは明らかだ。
また『ボーダーランド』の調査とは別に、アメリカのSF作家で懐疑論者でもあるライアン・スプレイグ・ディ・キャンプが、チャーチワードの過去について調査している。
それによれば、チャーチワードは「10代の頃から英国軍に従軍し、世界各国へと赴いて遺跡などを調査していた」と主張していたが、なぜか若い頃にアメリカで、
『A Big Game and Fishing Guide to North-Eastern Maine』(『メイン州北東部への大物釣りガイド』)という本を書いていたのである。
【追記】 藤野七穂さんより、この『A Big Game and Fishing Guide to North-Eastern Maine』の出版時期には誤りがあるため、10代の軍歴批判としては有効ではないとのご指摘を受けました。本文では「若い頃に」とありますが、実際に出版されたのはチャーチワードが47歳のとき、1898年であるといいます。確かに、その根拠として示されたジェームズの曾孫ジャック・E・チャーチワードによる「ジェームズ・チャーチワード年表─ジェームズに関する年代順の議論」(“James Churchward Timeline - a chronological discussion of James”2005)や、アメリカ議会図書館の書誌データを確認したところ、出版年は1898年であることがわかりました。
よってご指摘のとおり、本文にあるチャーチワードの著書を根拠にした軍歴批判は有効ではありませんでした。謹んでお詫び申し上げ、ここに訂正する次第です。
【写真引用元】
『ボーダーランド』(ハルキ・コミュニケーション)1996年9月号.P19
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続いては、チャーチワードが高僧から見せてもらったという粘土板の信憑性を探ってみよう。
彼が自説の最大の根拠としている、インド駐留時に高僧から見せてもらったという粘土板のほうは、実は話だけで、その存在はまったく確認されていない。
そもそも「インド駐留時に」という根本のところが上で見たようにホラ話である。そのうえ粘土板を見たという寺院の場所も一切明かさず、さらに“門外不出で秘密”のはずの粘土板を、知り合ったばかりの16歳の少年(「1868年に見た」と主張しているので、1852年に生まれたことが判明している彼は当時16歳だったことになる)に寺院の高僧がアッサリ見せてしまったというのだから、こんな都合の良すぎる話を信じろというほうが無理だろう。
また百歩譲って、仮にその粘土板が存在したとしても、チャーチワードの“解読”には客観性がまったく欠けており、資料的に疑わしい点が少なくない。
さらに上でも紹介した、すでにデタラメだったことが判明しているブラッスールらの“解読”と、チャーチワードの“解読”がよく似ていることから考えても、残念ながら彼の話はデッチ上げだったと考えざるを得ないのである。
【追記2】後の調査により、チャーチワードの生まれ年は1852年ではなく、1851年であることがわかりました。よって1868年当時の年齢は17歳ということになります。お詫びして訂正致します。
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最後は、この「ムー大陸伝説」が、なぜチャーチワードの発表当初から多くの支持を得たのかについて、『歴史を変えた偽書』(ジャパンミックス)における、志水一夫氏の考察を参考にしながら書いておきたい。
まずムー帝国では、「人種差別などはなかった」と言われることが多いが、実際のところ、この超古代文明の支配階級は“白人”であると設定されている。そして、この伝説のネタ元であるジェームズ・チャーチワード自身も白人優越主義者だった。原著では人種差別的な表現も多い。
また日本について言及している箇所がところどころあるが、そういった箇所では次のように書いている。
「一般には、教養のある人々の間でさえ、日本人はモンゴル系だと信じ込まれてしまっている。そうではないのだ。彼らは白人が黒人と異なるほどモンゴル人と異なっている。彼らは母なる国「ムー」の白色人種であるキチェ・マヤ人の子孫である。日本人の言葉は、今日でもまるまる40パーセントもキチェ・マヤ語を含んでいる」
(ついでに他の箇所では、「日本語の半分近くはマヤ語と共通なので、現代のメキシコ・インディオと日本人は通訳なしで知的な会話ができる」という、
日本人なら2秒でわかるホラ話をもっともらしく書いている)
また中国人については次のように書く。
「中国文明は世界最古の文明だと言われ、また、そう考えられている。しかし中国の文明はたかだか5000年くらいの歴史しか持っていない。中国文明を発展させたのは、中国人自身だと一般には信じられている。そうではない。中国人は、その文明を父方から受け継いだのだ。また、中国人は蒙古人種だと思われているが、中国人は半分だけ蒙古人種であり、中国人の祖先は白人系アーリア人だったのだ」
これらを読んで一番疑問に思うのは、なぜ日本人や中国人の祖先が「白人」となっているのか? ということである。そこを理解するには、当時の世界情勢下における白人社会の感情を知る必要がある。
まず日本に関しては、日露戦争において当時唯一白人国家と対戦して勝利を収めた国であった。当時の白人優越主義者にとって、自分たちよりも劣ると見下していた人種に負けたことは、プライドを傷つけられたことだろう。
しかし、そこにチャーチワードの「ムー大陸伝説」が登場し、こう主張する。
「実は彼らは白人の末裔なのだ」と。
また世界最古の文明の中に、非白人文化(※注1)である中国文明が含まれていることも、白人優越主義者にとっては不快なことだったろう。
【※注1】 実は世界最古とされる文明のほとんどは非白人文明であるもの、当時はそのことにほとんど注目もされず、公表もされなかった。
しかし、ここでもチャーチワードはこう主張する。
「実は中国人も白人の末裔なのだ」と。
人類の文化は全て同じ一つの文明から発しており、その文明では白人が支配していたというのは、まさに彼らにとって心安らぐ理想的な話だったに違いない。
また、このような感情が生じた背景には、進化論に代表される科学の発展や、それに伴う旧来のキリスト教的世界観の崩壊に対する、危機感もあったと思われる。
今から1万2000年前の太平洋に存在したという、白人が支配階級の超古代文明
「ムー大陸」。その伝説の背後には、白人優位主義を脅かす証拠の数々に折り合いをつけたいという、彼らの欲求が見え隠れするのである。
(記事公開日:2006年1月18日)
