月の裏側を念写した男「三田光一」

伝説

大正時代から昭和初期にかけて、日本で大きな注目を集めた超能力者がいる。彼の名前は三田光一。当時、「天成の霊能者」、「当代無比の神通力者」と呼ばれた天才である。

三田光一

三田光一(出典:三田善靖『霊観』帝国自覚会本部、1932年)

三田は明治18年、現在の宮城県気仙沼市に生まれた。幼少の頃より不思議な能力をたびたび発揮し、周囲からは「魔法様」とも呼ばれ、畏怖されていたという。

成長後は上京。自らの能力を活かして、精神修養団体「洗心会」を設立。後に「帝国自覚会」と改めて、その会長に就任。この頃から、透視などを公開の場で行うようになり、注目を集めるようになった。

そして前後するように大正2年頃には、当時、流行していた念写も行うようになる。これが三田の転機である。大正6年には、その念写を最も熱心に研究していた福来友吉博士と出会い、数々の実験を成功させていく。

念写とは、写真乾板やフィルムなどに念を送るだけで画像を写すこと。

たとえば、大正6年2月18日に行われた実験。このときは、まず福来博士が実験に使う乾板を厳重に封じ、すり替えなどができないようにした。さらに念写する対象は、東京・浅草観音堂の裏に掲げてある額面の文字とし、それを遠く離れた神戸から遠隔透視によって読み取り、厳重に封じてある乾板に念写するように依頼。

これに対し三田は、この一見、不可能に思える難題をあっさりクリアしてみせた。彼は額面の文字が「南無観世音」であると遠隔透視し、さらには文字の形まで正確に読み取り、それを念写によって再現してみせたのだ。念写は見事に成功である。

しかし、すごいのはこれだけではない。三田光一の名を不動のものにしたのは、何といっても昭和6年に行われた念写実験である。このときのお題は「月の裏側」だった。福来博士は当時、次のように語ったという。

月はいつも同じ側面だけを見せていて、裏側は地球の住民は誰も見ることはできません。しかしあなたなら多分、透視能力で見れるはず。もしそれができて、その形を乾板に写し取ってくれるなら、その結果は大層おもしろいことになるでしょうね。(『福来心理学研究所報告第5巻』P.32)

これに対する三田の返事は、「大変おもしろい。やってみましょう」だったそうだ。
こうして前代未聞の念写実験はスタートした。

実験が行われたのは、昭和6年6月24日。まず福来博士は大阪府箕面村桜井の自宅3階の床の間にて、2枚の乾板を箱に収め、フタをした。時刻は午前8時20分。

一方、三田はこの同じ時、福来博士宅から約40キロ離れた兵庫県神戸の自宅にいた。そこには立会人もおり、異常がないか監視している。三田は事前の約束どおり月の裏側を透視し、福来博士宅にある乾板に、その透視した像を遠隔念写する。

そして福来博士は、念写が終わる頃の8時30分になると、ただちに乾板の現像を行う。するとそこには、それまで人類の誰も見たことがなかった「月の裏側」の像が見事に念写されていた。念写は成功したのである。

その後、月の裏側の念写は、昭和8年に岐阜市公会堂にて行われた公開実験でも成功している。

月の裏側の念写像

月の裏側の念写像(出典:後藤以紀「月の裏側の念写の数理的検討」
『日本心霊科学協会研究報告 第二号』日本心霊科学協会、1986年)

この月の裏側の念写像は学術的にも詳しく調べられている。東京大学の後藤以紀博士は、1969年から72年にかけてのアポロ計画で得られたNASA編纂の月面円形地図、および月球儀を数理的に分析。

その結果、月の裏の主要なクレーター、ならびに海が、念写像と実に31個も一致することを突き止めた。これは全体の7割に相当する範囲である。

また物理研究家の佐佐木康二氏は、1994年の月探査機クレメンタインの画像データを詳細に分析し、月の裏の念写像とクレメンタインの月面画像が8割も相関していることを示した。

つまり三田光一の念写は当時の厳密な実験だけではなく、数十年後の最新の宇宙探査によっても、その正確さが認められたことになるのである。

謎解き

三田光一は福来博士が生涯で研究した7人の超能力者の中の1人で、その能力は最も優れていたという。博士は晩年に三田のことを、「日本最高の超能力者」とまで称賛しているほどだ。

その7人は、御船千鶴子、長尾郁子、森竹鉄子、高橋貞子、武内天真、渡辺偉哉、三田光一。三田の研究は途中に中断はあったものの、最長の21年に及んだ。

しかし三田光一について詳しく調べてみると、福来博士の評価にはとても賛同できないような疑問点が出てくる。はたして三田の透視や念写といった能力は信頼できるのだろうか。以下で考察してみたい。

若い頃の手品師時代

まず三田の若い頃を調べていてわかるのは、元手品師だったという経歴だ。地元の宮城県ではイギリス人手品師のギャクラーが率いる一座に入り、興業に参加していた。その頃に名乗っていたのは、ギャクラー光一朝日光一といった芸名である。

本名は三田才二。後年には善靖に改名。「三田光一」という名前は通称で、芸名のようなもの。

手品師としての活動は上京後も続けていた。明治44年には明治座で芸を披露している。その頃の演目は、千里眼、宇宙万物出現、空中自在皿飛び、身体石割術など。演目自体は奇術としてありきたりだったようだが、話術はなかなかうまいと当時の新聞でも評価されている。

また明治45年には、手品師の地球斎イルマンが新聞の取材に応え、次のように語っている。

あの三田光一は私の弟子で何もかも皆んな教えたのです。

三田には手品師の師匠が何人かいたようだ。このように、三田には手品師としての基礎が十分にあったことがわかる。トリックの知識やステージでの経験も持っていた。これは後の活動に大きな影響を与えたのではないだろうか。

実は大正4年の夏(福来博士と出会う1年半前)に行われた実験では、こうした影響をうかがい知ることができる。

このときの実験は大阪市天王寺公園内の公会堂で行われた。立会人を務めた大阪実験心理研究所の向井章によれば、最初は透視の実験だったという。しかし実験で使われたのは三田が自分で持参してきた小さな箱で、この箱に入れたものを当てる、というものだった。昔から手品であるものだ。

また次に行われた透視の実験も、使われたのは三田が持参した3本の扇子だった。これは広げると真っ白になっており、そこに書かれた文字を当てるというもの。

ところがこれは手順に怪しい点があった。三田の指示では、3本の扇子ごとに、選ばれた3人に文字を自由に書いてもらう。しかし、ここですぐに透視は行われない。なぜか三田自身が扇子を回収し、何が書かれたか確認してしまうのだ。

その後、扇子は閉じられ、壇上にいた三田の随行者に手渡される。随行者は3本の扇子を混ぜて、1本は三田に渡し、残りの2本は別の希望者二人に渡す。すると、ようやくここで透視が行われる。もちろん透視は成功。

しかし、この複雑な手順はおかしかった。現場で実際に立ち会った向井章によれば、三田が持参した扇子は、一見、すべて同じに見えたが、よく確認すると要の部分に少し違いが見られたという。向井は、この扇子の仕掛けと随行者との暗号を使ったトリックではないかと推測している。当時、似たような手品があったという。

このように三田光一が関わった実験を考える上で、トリックが使われた可能性は十分に検討する必要がある。

福来博士が太鼓判を捺す実験

大正6年2月18日に行われた実験は、【伝説】でも紹介したとおり、福来博士が厳密でトリックの余地がなかったと太鼓判を捺している。

けれども本当にそんな厳密な実験だったのだろうか? 実はそうでもない。
まず、このときの実験は福来博士が同席していない「通信実験」だった。実験に使われた乾板もノリ付けしたもので、手順の複雑さの割には、実はそれほど厳重ではなかった。密かに開封し、気づかれないように元に戻すことはできてしまう。

また福来博士は、こうした実験物を実験前に三田の自宅に送ってしまっていた。さらに透視のお題も、別の手紙にしたため同時に送っている。実験物や手紙を出したのは2月12日で、実験が行われたのは2月18日だという。

そして実験の結果を記した手紙が立会人から届いたのは2月20日だとしている。
ここから当時でも郵便物は二日ほどで届いたことがわかる。

ということは、手紙などは2月14日頃には三田の自宅に届いていたと思われる。当時、列車で神戸・東京間を往復するには二日ほどで十分だった。つまり東京のお題を出されても、神戸から往復して事前に知ることは可能だったことがわかる。

実物との比較

左が念写対象の実物。右は三田が念写したもの。福来友吉『心霊と神秘世界』(心交社、1982年)より。

それでも三田がトリックを使った証拠はない。しかし実験物を被験者の自宅に送り、お題も事前に知ることができるような状態では、とても厳密な実験だったとは言いがたい。

福来博士は多くの人から信用を得るためにも、トリックの余地がない、厳密な実験の必要性を説いていた。そうであればこそ、こうした厳密さに欠ける実験で太鼓判を捺してしまうような判断は、避けるべきだったのではないだろうか。

指摘されていた疑問点

三田光一の実験については、当時、実験に参加した人たちからも多くの疑問点が指摘されていた。ここでは、それらをいくつか紹介しておきたい。

大正6年12月2日の実験

奈良県生駒郡教育会の主催で、群山公会堂において行われた実験。前日の実験では念写が失敗したものの、この日は四つのお題のうち、三つが成功していた。

12月1日と2日の実験に参加した奈良県立郡山中学校の東辰蔵教諭は、自らの調査を踏まえた上で次のような疑問点を指摘している。

※スマホなどで閲覧の場合、以降の表は画面を横にすると、あまりはみ出さず読みやすい。

経緯 疑問点
お題 出題は、「施無畏」、「一以貫」の三文字、「薬師寺観音」と「木村未亡人」の像。 四つのお題のうち、成功した「施無畏」、「薬師寺観音像」、「木村未亡人」の三つは三田と関係がある者の出題、もしくは前日にリクエストがあったものだった。
乾板 前日に奈良女子高等師範学校の本庄教授提出のものが残っていたにもかかわらず、違う乾板が使われた。

実験前夜(12月1日)に福来博士、三田光一、およびその随行者、さらに主催者数名が、四海亭という料理店で会食。その際、三田から翌日の実験は乾板を代えるべきだとの要求があった。

そこで主催者はすぐに電話で奈良写真店に乾板の有無を問い合わせたが、どこにもないとの返答。

すると三田は、奈良のどの店なら乾板の在庫があるか、透視で調べようと言い出した。

そして透視の結果、奈良の堀内店に乾板が一つあることを告げ、購入に至った。

左記の経緯があったことを、三田たちは事前に説明していない。

また実験前夜、堀内店以外は乾板の在庫がなかったことになっているが、後の調査で、当時、他店にも乾板の在庫があったことが確認されている。

また東教諭は前日に新たな乾板を実験用に提出していたが使用を断られた。

特定の店の、特定の乾板を買わせるようにし、他の乾板はあっても使わず、お題は前もって知り得るものだった。

このことから考えるに、乾板は事前に仕込みがあるものにすり替えられていたのではないか、という疑問がわく。

大正6年12月8日の実験

東京の大正大学集会堂で行われた実験。二日前の12月6日に、同大学で行われた実験では念写に失敗していた。しかし、この日の実験では六つの念写をすべて成功させた。

ところが実験で写真の現像を担当していた写真技師の小西穂忠は、この日の実験について次のような疑問点を指摘している。

経緯 疑問点
お題 出題は、「佛心」の二字、「大正大学の阿弥陀像」、「曹洞宗大学の達磨像」、「荻原雲來が書いた梵字」、「南博士の亡父の肖像」、「賀正」の二字、の計六つ。 「佛心」は前もって大正大学の望月校長が三田に聞いて三田が出題したもの。「阿弥陀像」は6日の失敗後、校長室で福来博士が部屋に掲げてある阿弥陀像を指定したもの。「達磨像」は三田の自宅にもあるもの。

「梵字」は6日の実験でも出題されていた。「故人の像」は6日の夜の宴席で出席者が要望したもの。「賀正」は出題になく、三田が現像室で突然念写したと言ったものだった。

乾板 実験当日、大学にて乾板を購入する予定だった。 前日に三田の随行者、山田公一より、特定の乾板を使用するので、それに合った現像液を用意してほしいという連絡があった。

その後、乾板を購入予定だった玉置という人物の家を訪ねると、すでに前日の段階で乾板が用意されていた。

現像室内の出来事 乾板の現像時、現像室内には、小西、福来、三田、玉置、大島、望月、南の7名がいた。
 
小西が玉置から乾板を受け取ってすぐ、横から「それは」と言って奪う者がいた。振り向くと三田だった。

彼はその時、「乾板の番号を記しておくためだ」と言い、福来博士も「現像前に包紙に変化がないか注意するために、三田がやることだ」と言って弁護した。

しかし、戻された乾板には違和感があり、すり替えが疑われた。

なお最初、三田は現像室内の隅にいて小西の反対側に立っていたが、気づかぬうちに小西の隣に移動していた。

大正7年2月12日の実験

大日本私立衛生会講堂で行われた実験。主催は生命学会。立会人に選ばれた早稲田大学の中桐確太郎と、理学士の本田親二は、次の疑問点を指摘している。

経緯 疑問点
お題 出題は、「天地人」の三字と、「無地」「学宝」の二字。 「学宝」だけが成功した。しかし、このお題は三田が提案したものだった。
乾板 実験当日、中桐、本田を含む立会人の4人で、乾板とフィルムを購入。それぞれの箱には、店と立会人の印を捺し、製造番号をメモした。 現像室で三田が手に取ったフィルムだけ印が消え、番号も違うものになっていた。
現像室内の出来事 乾板とフィルムの現像を行うことになった。まず乾板の現像を行い、何も写っていなかったので、次にフィルムの現像を行ってはどうかと提案があった。 それまで監視するためにフィルムを持っていた本田は、フィルムの現像を提案し、同じ立会人の中桐の前の机にフィルムを置いた。

するとここで三田が、「中桐さんと私とは前から懇意だから、あなたが持っていると疑われるといけない。他の人が持っていて下さい」と言ってフィルムを取り上げた。

このときの手は右手だと思われたが、引いたときには暗室だったため、一時見失う。しかし再び箱を差し出したときは左手で、本田に箱を手渡した。

その後、三田は室外へ。箱のすり替えを怪しんだ本田は、ランプの近くでフィルムの箱の番号を確認。すると店や本田の印はなく、番号も「Emul 14946」だったのが、「Emul 15009」に変わっていた。

大正7年2月25日の実験

大日本私立衛生会講堂で行われた実験。主催は帝国自覚会。この日は1回目の実験で念写が失敗したあと、2回目の実験が行われた。以下は両方の実験に参加した大川定次郎が指摘した疑問点。

経緯 疑問点
お題 会場に配った名刺に、出題者の名前と住所を明記し、好きな題を書いてもらう形式になった。

提出されたお題は「疑問の人」という文字、「ロシアの日本大使館」「手書きの達磨の絵」

「疑問の人」「ロシアの日本大使館」(らしき建物)は、2回目の実験の際、念写された。

しかし会場で新聞記者たちが出題者を探したが見つからなかった。

そのため、このお題を提出したのは、三田と帝国自覚会の関係者だったのではないかという疑問が出された。

乾板 乾板は実験前夜、前朝鮮総督府技師の渡邊蹄一、神戸松尾神社神官の川合安吉、三田の義兄・片山卷三他二名等によって神田錦町1丁目12番地、曽根春翠堂で購入された。

乾板の保管も、これらの人たちが責任を持って行ったとのことだった。

実験後、すぐに新聞記者が写真店に行って確認したところ、乾板の購入には三田も同行していたことがわかった。三田は商品を手に取ったり、戻したりしていた。

また、実験の2、3週間前にも同じ店を訪れていたことがわかった。

さらに渡邊と川合は、三田と同じ旅館に宿泊しており、実験後に帰る際も一緒だった。

片山も三田の親戚で、購入と保管に関わった人たちは、皆、三田の関係者だった。

必要だった対策

このように、念写実験に対しては多くの疑問点が出されている。しかし何より残念なのは、こうした疑問点を、実験にも多く関わっていた福来博士が自ら進んで報告しなかったことだ。

後追いのかたちで実験に不備があったことを認めることはあるものの、対応が後手にまわるようでは、博士や三田側が問題ないとしている実験でも簡単には信用できなくなってしまう。

それでは、どのような対策が必要だったのか。奈良県師範学校教諭の佐藤富三郎は、その対策を以下のようにまとめている。佐藤は、奈良県の実験にも参加し、その後、手品で三田と同じ念写を再現している人物だ。

1 術者に乾板の種類、形等を指定させない。
2 乾板は、任意の店より同種同形のものがたくさんある中から購入すること。厳密にいえば、実験者自ら乾板を自作するのが望ましい。
3 乾板には、すり替え、開封を防ぐ装置を施すこと。またすり替え、開封が行われたときは、これを発見する方法も施しておくこと。
4 始終、術者、又はその関係者が、乾板に手を触れないように監視すること。
5 お題はその場で決めること。術者が予想できるものは避け、なるべく明瞭にし、解釈の余地があるものは避けること。
6 あらかじめ乾板の何枚目に念写するか指定すること。前後のズレを当たりに含めないこと。

これに加えることがあるとすれば、「実験前、術者に演説をさせない」ことと、「対照実験を行う」ことだろうか。

演説というのは、三田がよく実験の前に、集まった人たちに向かってしていたことだ。この演説では、その後に出題されるお題を誘導、暗示するようなものが含まれているとの指摘があがっていた。一種のコールド・リーディングである。これを防ぐには、実験前の演説をさせないことだ。

もうひとつの対照実験とは、トリックに精通した者に、術者と同じ条件で実験を受けてもらうものだ。仮に術者が成功しても、トリックで再現出来るようでは、実験の方法に穴があるということになる。それを確かめるには対照実験が欠かせない。

これらをクリアし、さらに複数回、実験を成功させることができれば、はじめて、その術者の能力は注目に値するものになるはずだ。

月の裏側の念写

続いては月の裏側の念写について。これには3つ、ポイントがある。

第一に、福来博士の自宅で行われた実験は遠隔実験だったこと。第二に、後年、東京大学の後藤博士が、NASA発表の画像と月の裏側の念写像に一致が見られるとの分析結果を発表していること。第三は、その後さらに、1994年のクレメンタインの画像でも多くの一致が見られるとの発表があったこと、である。

順に検討してみよう。まず遠隔実験については、確かに【伝説】のとおり、実験当日、福来博士と三田は離れた場所にいた。乾板をすり替えることは無理に思える。もし月の裏側の像が三田の想像に過ぎなかったとしても、離れた場所から像を写せただけで、念写は成功と言える。

しかしトリックの余地はまったくないのだろうか? 実は、ひとつ可能性がある。実験時ではなく、すでに実験が始まる前に乾板がすり替えられていた可能性だ。

そもそも大正6年6月24日の実験は、お題が月の裏側であることや、実験の段取りなどが、すべて事前に決められていた。そのためあらかじめお題の絵を写した乾板を用意し、その乾板を福来博士に使わせることができれば、実験当日に現場に同席している必要はない。

前に紹介したように、三田は実験に使われる乾板が写真店で購入される段階で、すでにすり替えを行っていた可能性が指摘されている。今回の場合も、その可能性は捨てきれない。本来はこうした可能性を排除するためにも、すでに示したトリック防止策が活用されるべきだった。

乾板の中には、写真店で売られている段階で、しっかり封がしてあるように見えても、簡単に開封し気づかれず元通りにすることができるものが、当時、数種類あったという。

それでは他の2点はどうだろうか。後藤博士の方は、分析によると念写像は月の真裏よりは少し斜め上向きに見たとき、31のクレーターや海と一致が見られるとしている。

ところが論文を読んでみると、示されているのは、月の裏の念写像と以下の各クレーターや海の場所を示すという図、さらには計算式だけしかない。

クレータなどを示したという図

クレーターなどを示したという図

これは念写像に、後藤博士が一致したとしている31のクレーターや海の番号を記したものだという。(1番はツオルコフスキー・クレーター、3番はモスクワの海など)

しかし、この図や計算式を見ても、なぜその番号の場所にクレーターや海があると判断できるのか、という肝心の根拠が示されていないため、まったく説得力がない。

実際の月の裏側は、次のようなっている。これはNASAの無人月探査機、ルナー・リコネサンス・オービターが撮影した月の裏側の鮮明画像だ。

最新の月の裏側の鮮明画像

最新の月の裏側の鮮明画像。NASA「The Far Side of the Moon ― And All the Way Around」(http://www.nasa.gov/mission_pages/LRO/news/lro-farside.html)より。

対して、月の裏側の念写像は次のとおり。

月の裏側の念写像

月の裏側の念写像

位置が少しずれていると解釈しても全然似ていない。それもそのはずで、月の裏側は、黒っぽく見える「海」と呼ばれる部分が、たった2パーセントしかない。表側の30パーセントに比べるとかなり少ないことがわかる。

ちなみに月の裏側で最も特徴的で目立つのは、左上に黒っぽく見える「モスクワの海」だ。これが念写像では、比較図によると3番の位置にあたるという。しかし上の念写像を見て、左上が最も目立ち、そこにモスクワの海があると判断できる人がはたしているのだろうか?

実際、同じように分析を行った佐佐木康二氏からは次のように指摘されている。

報告された比較図を見ると、クレーターといっているものが確かに写っているかどうかもわからないし、同じようなクレーターと思われるものが念写では白かったり黒かったりするため、一貫性がなく、本当に一致しているのだろうかという疑問があった。(佐佐木康二「『月裏念写』の新しい数理解析(Ⅰ)」福来心理学研究所、2003年)

とはいえ、その佐佐木氏が行った分析も実はあまり大差がない。彼の分析では、月の裏側の念写像を裏返しにして90度横にしてしまう。さらに比較する1994年のクレメンタインの月の裏側の画像も、真裏ではなく、南緯35度、西経155度付近の画像を使う。

また分析の際は、風水や方位学でいう龍脈とエネルギーの流れを示すという「磁流ライン」なる独自の理論を用いている。そして一番残念なのは、後藤博士と同じように、どのクレーターや海が一致しているのかということを具体的な根拠をもって示せていない点だ。これでは、やはり説得力に欠けてしまう。

人を惹きつけた三田光一

さて、ここまで書いてきたように、三田光一の念写や透視といったものには、多くの疑問点がある。しかしだからといって、すべての実験でトリックが使われていたと判断できるほど明確な証拠があるわけではない。一方で、彼を「天成の霊力者」と呼べるほど明確な証拠があるわけでもない。

彼が出席した念写の実験会には、少ないときでも百数十人、多いときは数千人が詰めかけたという。彼には多くの支持者がいた。ある種のカリスマ性があり、人を惹き付ける魅力があったことは事実だろう。

月の裏側の念写像も、彼の死後数十年を経て、たびたび蘇った。宇宙探査はこれからも続く中で、再び分析を行う者が現れ、三田光一の名が脚光を集める日が来るかも知れない。今後も注目していきたい。

なお最後に、こうして記事を執筆することができたのは、多くの資料の恩恵を受けたからである。そうした資料の中には100年近く前のものもあるが、当時の人たちは地道に調べ、読者の参考になるようにと詳しい記録を残してくれた。そのおかげで100年後の現在でも考察を深めることができた。

また三田光一の死後も彼を慕い、散逸しがちな情報を集め、後世に残そうと奮闘された方たちの資料も大いに参考になった。こうした先人たちの努力には敬服するばかりである。深く感謝の意を表したい。

【参考資料】

  • 福来友吉『観念は生物なり』(日本心霊学会、1925年)
  • 気仙沼町誌編纂委員会『気仙沼町誌』(1953年)
  • 福来友吉『心霊と神秘世界』(心交社、1982年)
  • 小熊虎之助『改訂版心霊現象の科学』(芙蓉書房、1983年)
  • 丹波哲郎『稀代の霊能者 三田光一』(中央アート出版社、1984年)
  • 中沢信午『超心理学者福来友吉の生涯』(大陸書房、1986年)
  • 寺沢龍『透視も念写も事実である』(草思社、2004年)
  • 雑報子「再燃しかけた念写問題」『心理研究』(Vol. 13 , No. 73, 1918)
  • 佐藤富三郎「手品式の念写実験」『心理研究』(Vol. 13 , No. 74, 1918)
  • 東辰蔵「念写実見記」『心理研究』(Vol. 13 , No. 74, 1918)
  • 向井章「三田氏の念写問題に就いて」『心理研究』(Vol. 13 , No. 75, 1918)
  • 雑報子「念写問題の経過」『心理研究』(Vol. 13 , No. 76, 1918)
  • 本田親二「三田光一氏の念写に就て」『心理研究』(Vol. 13 , No. 76, 1918)
  • 大川定次郎「二月二十五日の念写実験について」『心理研究』(Vol. 13 , No. 76, 1918)
  • 中桐確太郎「念写実験記」『変態心理』(第二巻、第一号、1918年)
  • 「明治座の奇術」『東京朝日新聞』(1911年8月15日付け、朝刊、第7面)
  • 「イカモノ教師」『東京朝日新聞』(1912年5月30日付け、朝刊、第7面)
  • 「神戸で廿日の拘留」『東京朝日新聞』(1918年2月15日付け、朝刊、第5面)
  • 黒田正大「“三田光一”余聞録(一)―幼少年時代―」『福心会報第14号』(福来心理学研究所、1967年)
  • 甲山繁造「この霊的巨人の足跡を見よ(1)」『心霊研究』(日本心霊科学協会, 13, 4. 146)
  • 甲山繁造「この霊的巨人の足跡を見よ(3)」『心霊研究』(日本心霊科学協会, 13, 7. 149)
  • 甲山繁造「この霊的巨人の足跡を見よ(4)」『心霊研究』(日本心霊科学協会, 13, 8. 150)
  • 甲山繁造「この霊的巨人の足跡を見よ(6)」『心霊研究』(日本心霊科学協会, 13, 10. 152)
  • Tomokichi Fukurai「Study on Nengraphy」『福来心理学研究所報告 第3巻』(福来心理学研究所、1986年)
  • 後藤以紀「月の裏側の念写の数理的検討」『日本心霊科学協会研究報告 第二号』(日本心霊科学協会、1986年)
  • 佐佐木康二「『月裏念写』の新しい数理解析(Ⅰ)」『福来心理学研究報告 第5巻』(福来心理学研究所、2003年)
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